13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

007 死ぬのは奴らだ

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

猛威を振るうという印象ではないのだけれど、確実に社会の機能を蝕んでいく新型コロナウイルスの影響もあって、1カ月近くUPしていなかったことをお詫び致します。
あっと、影響といっても感染して療養していたのではありません。

さて、今回採り上げるのは、『007 死ぬのは奴らだ』。本格的にボンド役はショーン・コネリーからロジャー・ムーアに交代した一作目となる。
今回は、勿体ぶらずに早速イラストをご覧頂こう。

このシーンは、オープニングテーマが終わって間もなくのストーリーが動き始めるところ。
新ボンドの初登場シーンはボンドの自宅でのベッドシーンで、女性とピロートークしているところに、司令を伝えるべく上司のMがやってきて、少し遅れてMの秘書のマネーペニーも部屋に入る。
Mは司令を伝え、ボンドが修理に出していた秘密兵器である強力な磁石ほかを仕込んだ腕時計を渡し、マネーペニーと共にボンド宅を出ていく。
深夜の来客に驚き、クローゼットに隠れていた女性に、ボンドが来客が帰ったことを伝えると、女性はボンドにもたれかかり、それに応えるようにして、修理から戻ってきた磁石を仕込んだ腕時計を使い、手を触れずに女性の背中のファスナーを下ろす……それがこのシーン。
前述のように、ストーリー上、来客があったものの、部屋にはボンドと女性の2人きり
ベッドシーンでもボンドは腕時計をしたままだったので(スパイの習性か?)、黄色いガウンを着た左腕に、腕時計が1つ。そして、修理から戻った右手に持った腕時計が1つ。そして画面右上に、腕時計か、あるいはブレスレットのような金色の金属のバンドを付けた左腕と、それに重なった右腕のようなものが見える。
私のイラストでは不明瞭かも知れないけれど、このシーンにはいないはずの誰かの腕が、ボンドと女性の体の間に差し込まれるようにして映っているのだ。
私も最初は、女性の腕なのかと思ったけれど、この直前のカットでは、女性の右手首はボンドの首辺りに回していて、ここには映らないし、上腕に付けたブレスレットかとも思ったけれど、この前のシーンにそんなものは映っていない。
つまり、見えている通り、2人の体の間に、もう1人の誰かが「かめはめ波」を撃つような格好で腕を差し込もうとしている様子と見るのが一番自然なのだ。
一時停止した状態から、更にコマを進めると、金属のバンドを付けていない右腕に見える方の腕は、ゆっくりと更に深く差し込まれようとしているのが分かり、何かいやらしいものを見たような気にもなる。

制作側も気付かなかったエラーシーンなのか、あるいは、見る人は全て下ろされるファスナーに視線を奪われるだろうからと、制作側が意図的にイタズラしたシーンなのか、ネットで情報を探ったが、それらしい記事は見つからなかった

このシーンを選んだのは、この後も大活躍する秘密兵器の腕時計を使うシーンだし、映画を見たかなりの人が記憶しているシーンだと思うし、何より肖像権の侵害にあたらないシーンだからでもあったのだが、思いがけない発見をして、我ながら驚いている。
心霊映像的なものなのかも知れないけれど、それにしては鮮明に映りすぎているのが、更に不可解。

DVDなどお持ちの方は、確認してみて欲しいところだし、情報をお持ちの方はお知らせください

さて、本来先に描くべき新ボンドであるロジャー・ムーア
ショーン・コネリーが加齢などにより、アクションのキレが悪くなったから、身のこなし優先でジョージ・レーゼンビーを起用したのでは? と、前々回のブログで書いたけれど、実年齢でショーン・コネリーより3つ年上で、この映画の出演時は46歳
シリーズ第一作からオファーがあったらしく、制作側としては起用したい俳優だったのは間違いなく、起用が叶ったとなっては、ボンド像までも変えざるを得なくなったということなのか、ショーン・コネリー時代のボンドとは随分雰囲気が変わった
格闘シーンもあるけれど、キザでユーモアに富む台詞回し、また知略に長けたところなどが強調され、旧来のボンドと差別化を図っているかに見える。

実際、ショーン・コネリーより線は細いものの、金髪で端正な顔立ちゆえか、変更されたボンド像とピッタリ来ていて、シリーズのヒットと存続に大きく寄与したことだろう。

とはいえ、ショーン・コネリーのボンドでシリーズのファンになった立場からすると、「ジェームズ・ボンドのテーマ」が使われていなければ、別な映画なのではないかと思うほどの変容。

更に音楽のことを言うなら、主題歌など名曲を提供し続けたジョーン・バリーが音楽担当を降り、ポール・マッカートニー&ウイングスによる主題歌にマッチするBGMが当てられ、舞台がアメリカのシーンなどは、当時のA級とはいい難いハリウッドの映画を見ているよう。

加えて、リニューアルしたボンド像に合わせるかのように、全体的にコミカルな雰囲気となったのは、軽い失望を伴う違和感だった。
特に、ストーリーの中盤に出てくるでっぷりした保安官とかは必要だったのだろうか?

ケチばかり付けたけれど、ボンドガールのジェーン・シーモアは、清楚で華奢に見えつつグラマーで、シリーズ中でもかなりの人気を博しているのが納得の美女。
また、格闘シーンなどが控えめになった分、モーターボートを使った長尺のアクションシーンも斬新だし、スペクターのような巨悪との戦いではなく、アングロサクソン対アフロアメリカンという社会背景を感じさせるところも、違和感はあれ、設定の新しさを感じた。

もう一つ書いておきたいのは、少々微妙な部分なのだけれど、ボンドがCIAの協力者として登場するアフロアメリカンの女性をきっちり口説き、ラブシーンンを演じている点だった。
例えば、私が観た映画の中では、エディー・マーフィーが主演だと、ヒロインは決まってアフロアメリカンという印象があって、人種の問題を抱えるアメリカでは、キャスティングにもそんな棲み分けがあるんだろうかと思っていたのだけれど、確かにクリント・イーストウッド主演の映画でもアフロアメリカン系の女性がヒロインの映画を観たことはあるし、純粋に人種問題と結びつけて考えていた私の早計だっただろうか。
実際は、原作に倣っただけというのが真相な気もするし、ひょっとしたら原作からしてそういう棲み分けに対するアンチテーゼを盛り込んだのだろうかと思ったり、とにかく本筋とは別なところでも想像力を働かせてしまった。

いずれにせよ、早くキャスティングしたかったロジャー・ムーアに、イギリスの世界的ミュージシャンのポール・マッカートニーの主題歌、そして魅力的なボンドガールと、制作側が欲しかったものがずらりと揃った意欲作であり、テイスト変更にも成功した映画だったと言えるだろう。

この作品の悪の親玉・カナンがとの対決で、口の中で弾丸に封じ込められた圧縮ガスを放出されたカナンガは、水中から天井の方までガスの作用で浮き上がり、破裂するのだけれど、人の体を浮き上がらせるほどの浮力を持つガスが、金属とはいえ弾丸の中に封じ込められていたら、弾丸自体が宙に浮くのではないかというネタバレ的なツッコミまで含めて、黙っていられませんでした。
因みにこの映画の主題歌は、あまり肌に合わないので唄ったことは有りません。

007 ダイヤモンドは永遠に

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

さて、新型コロナウイルスの感染が深刻な問題になっているけれど、それはそれとして007シリーズのブログにお付き合いいただきたい。
外出を控えるよう要請が出ているご時世なので、長文のブログは時間つぶしにピッタリかと。

ともあれ、今回は『007 ダイヤモンドは永遠に』について書きたい。
この映画には、ショーン・コネリーが最後に(もっと後に別な映画会社でボンド役をやったけど)演じた映画だし、描きたいシーンが見つかったからこのブログに採り上げる次第。

私がこの映画を観たのは、小学生の頃。もっと正確に書くなら、明日から中学生となり、校則で坊主頭にしなくてはならない夜だった。
小学生の頃からボンド映画のファンだった私は、描かれる大人の世界に憧れ、どこか目指す大人像としてボンドを重ねていたのだが、坊主頭になってしまい、それが随分と遠のいたような気がして、げんなりしたのを覚えている。
まあ、大人像として私が目指せるようなものじゃなかったのは、子供だから気付かなかったけれど。

唐突だが、寺沢武一氏作の『コブラ』というコミックがあるのをご存知だろうか。
コブラなる、宇宙を股にかける一匹狼の海賊が活躍するようなSF作品なのだけれど、今にして思うとこの作品には、ジェームズ・ボンドものの映画の影響が多数見られるように思う。
主人公・コブラの余裕綽々で不死身でユーモアの効いた言い回しなどはボンド像と重なるし、敵のアジトに乗り込んで秘密を暴こうとする様子も共通するものがあるし、セクシーなコスチュームを纏った女性も多数出てくる。
先にこのコミックを読んでいた私は、来る坊主頭になる日の夜を前に、番組宣伝でちらりと映った、高い露出度のセクシーな格好をした白人女性と黒人女性とボンドが格闘するシーンにハッとした。
作戦遂行のためにわざと刑務所に留置されたコブラが、独房を抜け出して秘密を探ろうとしているときに、白人と黒人の女性型サイボーグと格闘するシーンが描かれていたのを覚えていたのだ。
コミックと実写とか、コスチュームの違いなどはあったものの、このシーンから着想を得て描いたシーンなのだろうと、すぐにピンときたのだった。
オマケに、コブラとの格闘の末、「ゴールドフィンガー」のよろず屋と同様、黒人女性型サイボーグは、火花が迸る電気のケーブルで感電させられて破壊されるという念の入り様。
寺沢氏はこのシーンで、2作の007シリーズのシーンをパクっ……いや、流用していたのだ。

そもそも寺沢氏は、強くてカッコいい男が主人公の洋画が好きだったためか、『コブラ』の中で、クリント・イーストウッドやショーン・コネリーが吐いたセリフを時々流用しているのが分かる。
まあ、私もその手の洋画が好きで、多数観ていたから気付いたのだし、そうでなければ寺沢氏もコブラやゴクウのようなヒーローを産み出せなかっただろうけど。

……というわけで、コブラでも出てきたのと似たシーンが出てきたりすることも楽しみで観たのがこの映画だったわけである。

映画としては大ヒットしたらしいし、映画を見るより先に耳にしていた映画音楽の作曲家として有名なジョーン・バリーによる主題歌・主題曲も好きだったし、イチオシのボンド映画がこれ……と言いたいところなのだけれど、実はそうでもない。
前作「007は二度死ぬ」から「女王陛下の007」を跨いで4年ぶり復帰ということもあり、41歳となったショーン・コネリーは、少し中年臭さが強くなり、身のこなしも悪くなっていた。
先に書いた格闘シーンも、アクロバティックに攻撃を仕掛ける女性二人に弄ばれるかのような劣勢だったし、そもそも体格がポッチャリしていたし、以前の作品の頃よりも眉の太さや濃さが目立ち、正直あまり「カッコいい」とは思えない風貌になっていたのだ。
それを補うかのように、ボンドガールのジル・セント・ジョンは、聡明さ不足な感じはあるものの、高露出度でお色気たっぷり
ただの仲良しかと思っていたけれど、実はゲイだという設定の二人組の殺し屋の掛け合いは斬新だったし、宿敵ブロフェルドも、意味不明な女装を見せ、敵役のクセの強さも増強されていた。
秘密兵器という点では、目立ったものは出てこない印象だが、復帰のために上乗せされたショーン・コネリーのギャラに開発費・制作費を持っていかれたのだろうか。(スコットランド国際教育基金にギャラは全額寄付したそうだが。by Wiki)

先日放映された昼の映画では、(他の作品もそうだが)1時間半の放送枠に収めるために、随分と本編がカットされていて、この作品もそれで不可解な点があるのかと思ったが、ノーカット版でも説明不足な部分が幾つか指摘されているそうで、シリーズの持ち味はそれなりに盛り込まれており、コネリー復帰という目玉も手伝ってヒットはしたものの、映画としての評価は今ひとつかなあ……というのが私の評価だ。

さて、余分な話も含めて、映画そのものについては語り尽くした感じだが、今回はどのシーンのイラストなのか?

ジャーン! 今回はパトカーから逃げようとするフォード・ムスタング・マッハ1でした。

この作品では、過去にないほどカーアクションのシーンが長尺で盛り込まれており、これはなかなかの見もの。
私はこの、アメリカのカーアクションが売りの映画に時折出てきた、ムスタング・マッハ1という車が好きで、先に他の映画で存在を知り、その魅力に惹きつけられていたのだ。
今だって、購入して維持ができる経済力があれば、欲しいと思う車の一つだったりする。
敢えて書かなかったけれど、この作品を見たかったのは、自分が好きな車によるカーアクションが観られるからであって、ストーリー上、ボンドガールの持ち物なので、何も特別なところはないのだが、この間の放送でも充分に堪能させてもらった。

但しこの車、ヘッドライトが嵌っているフロントの部分が、フロントタイヤのある辺りからすぼまっているうえ、ボンネットの両端が盛り上がった形状になっていて、それがまたカッコいいと思えるところなのだけれど、非常に形をとるのに苦しんだ
しかも、車線変更中で車体は傾いているし、タイヤから路面のあたりは真っ暗だし、何度か他のシーンに変更しようかと思ったほどだった。
鉛筆で形を取り、透明水彩という絵の具で着彩に入る……という段取りで描いているのだけれど、着彩に入るまでの形取りに、「女王陛下の〜」のイラストを描いたときの4倍くらいは時間がかかった労作とあいなりました。
その甲斐あって、まずまず納得行く出来にはなったと思うけれど。

因みに、この主題歌も、カラオケで時折唄う得意曲であることも含め、黙っていられませんでした。

女王陛下の007

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

007シリーズの映画のTV放映に合わせて、これぞという作品の評を書くシリーズを続けているわけだけれど、今回は4作目と5作目をすっ飛ばして6作目について書く。
すっ飛ばした理由にさらっと触れておくと、4作目『007 サンダーボール作戦』は、ボンドガールをはじめ、出演した女性たちの妖艶さが光るものの、ウリだったらしい海中のアクションは今となってはあまり有り難みがない。要するに映画としてあまり面白みが感じられないし、案外ツッコむところも見当たらなかった。

5作目『007は二度死ぬ』は、邦題も何かカッコいいし、何より日本が舞台で、ボンドガールの浜美枝さんも美しく瑞々しいのだけれど、ショーン・コネリー演じるボンドが、敵の目に触れないよう日本人に扮するような無理な設定とか、どことなく歪んで見える日本の描写とか、どっちかというと腐すようなことしか書けなさそうなので採り上げなかった。
高校の同級生から、

「ロケで鹿児島を訪れたもののショーン・コネリーの背中にひどい湿疹ができて、ウチの父親が診察したそうだけど、湿疹も相まってボンドを演じることに不満全開だったそうだ」

なんてエピソードを聞いたように、ショーン・コネリーも今ひとつ生気がなかったようにも見えた。

前置きが長くなったが、新ジェームズ・ボンドを起用して制作されたのが、今回採り上げる『女王陛下の007』である。
2代目となったのが、ジョージ・レーゼンビーだったのだが、不評だったため、この作品でボンド役を降りることになってしまったという曰く付きの作品だったりする。
ブログを書くにあたってちょっとネット取材して驚いたのが、このジョージ・レーゼンビーはオーストラリア人。以前、次のジェームズ・ボンドにメル・ギブソンが起用か……なんて噂を聞いたときに、

「イギリス紳士じゃないんだから嘘だろ」

と思った(オーストラリア人だと思っていたけどメル・ギブソンはアメリカ人でした)のだが、このときすでにイギリス人じゃないボンドが存在したのだった。イギリスの息のかかった国だからOKだったのだろうか。

さて、久々にボンドを演じたジョージ・レーゼンビーを観てみたけれど、確かにどこか垢抜けないところがあるし、イケメン度も演技力も高くないという評判がうなずけなくもないなあと思ったのだが、格闘シーンやアクションシーンなどの体のキレは素晴らしい。
アクションシーンがつきもののシリーズだから、身のこなしが悪くなってきたショーン・コネリーの後釜として抜擢されたのがよく分かるし、そこを強調したシーンがよく出てくる。
監督も、過去6作で編集を担当してきたピーター・ハントが担当し、ボンド役刷新に伴って新風を吹き込みたいものの、シリーズの特性をよく分かっている人を起用して持ち味は残したいという制作側の意図も伺えるが、もともと編集をやっていた人がメガホンを執ったためか、過去の作品になかった斬新な編集が施されていて、ボンド映画のリニューアルを印象づけている。

敵方の拠点がスイスということもあって、シリーズとしては初となるスキーアクションのシーンが2度ほど盛り込まれ、これもまた新鮮。
この後の作品でも、帽子やゴーグルで顔を隠せるのでスタントを立てやすいという事情もあるからか、生身で展開するスキーでのアクションは度々出てくるけれど、カーアクションとは違ったスピード感があって、今も見応え充分だと思えた。

評判が良くなかった作品ではあるが、久々に観てみると、新ボンド起用という大きなターニングポイントを迎えたスタッフの意気込みや、スパイ映画らしいアクションシーンも盛りだくさんの、なかなか楽しめる映画じゃないか……と、評価を改めてしまったようなところもあり、今回採り上げた次第である。

さて、今回のイラスト。
今回はズバリ、ボンドガールであるトレーシーを演じたダイアナ・リグを描いた。

このシーンは、敵の本拠からスキーで逃げ出してきたボンドを、スケートリンクなどもあるレジャー施設のようなところでバッタリと再会したトレーシーが、救いを請うボンドを助けるべく、追ってくる敵の車から逃げようと乗ってきた車を自ら運転しているところである。
敵の車を撒くためにストックカーレースのコースに紛れ込むのだが、激しいカーチェイスのシーンにして、レースに参加しているプロのレーサーも顔負けのハンドルさばきを見せているのに、イラストにあるように始終口の脇から舌をのぞかせる余裕を見せているところが、エラくカッコよく見えたので、描かずにいられなかったのだ。
今度はブログの裏話だけれど、ここまで4点のイラストを描いてブログに載せてきたけれど、実は最初に描いたのがこのイラスト。
このイラストを描いてしまって公開したかったために、1作めからイラスト付きのブログにして辻褄を合わせてしまったというのが本音で、このイラストを描かなければ過酷なイラスト付きブログを書かなくて済んだのだが……。

一番いいシーンを……と、トレーシーの舌をのぞかせた顔が映っているシーンを、ひとコマずつ送りながら探しつつ、何度もこのカーチェイスのシーンを観たのだけれど、このダイアナ・リグのハンドルさばきや視線の配り方などが、あまりにもリアルなのに気づき、また感心してしまった。
このシリーズでもボンドをはじめ車を運転するシーンは何度も出てきて、明らかに背景を合成しているなあと思うことが多かったけれど、この作品のカーチェイスそのものに、ダイアナ・リグのハンドルさばきも相まって、単純に背景を合成したとは思えないリアリティがある。
チラホラと合成したのが分かるシーンもあるのだが、ボンネットあたりに配置したであろうカメラは、フロントグラスに映る照明の反射が時折車内を見えなくしている様子を捉えているし、左右に激しく動く車の動きに伴って背景も流れていくし、どうにもダイアナ・リグ自身が運転しているようにしか見えないのところが多いのだ。
何かの映画のメイキング映像などで、実は撮影用の車で牽引しているのを、早回しや編集で役者が運転しているように見せているような光景を観たことがあるし、撮影中に事故でもあれば映画そのものがボツなることもあるので、安全面からも役者に運転はさせないのだと思うのだけれど、実際に運転していたシーンが含まれていたのではないかという気がしてならない。
Wikipedia情報だけれど、実際スキーのシーンも、ジョージ・レーゼンビーはスキーが得意だったそうなのに、スタントを立てるくらい安全面には配慮していたそうなので、実際には運転してはいないというのが真相だろうが、運転の演技が素晴らしかったのか、ピーター・ハントの編集の手腕なのか、とにかくダイアナ・リグのちらっと見せる舌と一緒に堪能していただきたいカーアクションシーンだ。

窮地に追い込まれ、見事な運転で逃走を手助けしてくれるたのが美人ならば、ジェームズ・ボンドといえども惚れてしまい、立場を捨てて……あっと、これ以上は書かずにおこう。しかもあんなラストシーンになってしまうとは……。

秘密兵器やボンドカーなどはあまり出てこない作品だが、他にも見どころは沢山あり、評判のことは忘れてお薦めしたい作品だ。
ただ、TV版はストーリー上大事な部分も随分カットされていて、残念だったことも付記しておきたい。

女王陛下も出てこないし、ボンドが謁見するような話も出てこないのに、なぜこんなタイトルに? ……と思って調べてみたら、ストーリー上それほど重要とも思えないセリフ中で、このタイトルにあたる”On Her Majesty’s Secret Service“と出てきており、それが原作のタイトルに使われていたので、映画もこのタイトルになったという記述を見つけたが、タイトルについては何か釈然としない気持ちも含めて黙っていられませんでした。