13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・最終回

ハザードランプを点滅させ、軽い坂道をつま先で漕ぎながら路肩へ移動した私は、何度かスターターボタンを押してエンジンをかけようとしたが、キュルキュルキュル……ではなく、チキチキチキ……という音に変わっていることに気がついた。
これは、バッテリーが切れた時の音? しかしながら、あれだけ長距離走ってきたし、福島へ来てからもちょくちょくエンジンは動かしていたので、バッテリーあがりということはないはずだが……と思った私は、停車した場所から少し先を左に入ると、軽い下り坂になっているのを見つけ、押し掛けを試みることにした。
押し掛けとは、勢い良く空走したのちガツンとギアを入れてエンジンを掛ける方法で、車でもバイクでも、ギアを入れたまま車輪を動かすと、エンジンが連動し、プラグがスパークしてエンジンがかかるのだ。昔の映画などで見る、飛行機の先頭についたプロペラを勢い良く回すとエンジンがかかる……のと、同じ仕組みである。バッテリーが上がった時などにこうして動かし、走っているうちにバッテリーも充電され、やがて事なきを得るというわけだ。
えっちらおっちらバイクを先の角まで移動し、クラッチを切ってしばらく空走し、勢いのついたところでクラッチをつなぐと、ズボボボボボ……ブルンブルンと、エンジンはどうにか始動した。
ある程度エンジンが動き、ジェネレータ(いわゆる発電機)が機能し始めればエンジンは回ってくれるようだが、エンジンが回っていてもバッテリーに充電されないということは、ジェネレータの発電量不足……つまりイカれているということか? そうなると、目的地に着くまでの間、エンジンが動くだけの発電量を維持すべく、エンジンを吹かし続けていなくてはならないということか?
ともあれ、こんなことでビビっていても仕方がない。前進あるのみだ。全体的な老朽化で燃費も悪くなっているところ、ガソリンを垂らしながらエンジンをぶん回し、給油の回数が増えようとも、先に進まなくてはならない。
私は、信号待ちなどでもエンジンを高い回転数で回しながら、エンジンを止めないようにしながらしばらく進んだが、しばらく行くと再びエンジンは止まってしまった。
今度は、たまたまちょうど道の駅の手前であり、視界の範囲に押し掛けにふさわしい下り坂も見当たらなかったので、道の駅へ回避。駐車場は概ね水平なので、一休みしてここで押し掛けしよう。
道の駅の敷地内を見渡すと、よく見る感じの建物やトイレなどの他に、2階建ての大型のプレハブが建っていて、その前にはパトカーが停まっている。どうやら、本来の建物が津波の被害に会い、ここに仮設の警察署を造ってあるようだ。本当に、災害は対象を選ばない。
仮設とはいえ、警察署の前で押し掛けなど、整備不良を問い詰められそうで心臓に良くないが、押し掛けするとどうにかエンジンがかかり、再び国道45号を南下したのだが、1kmと進まないうちにまたエンジン停止。脇道に下り坂を見つけ、再び押し掛けを……と、何度かそんなことを繰り返しているうちに、国道から離れてしまった。
体力的に、長めの下り坂を探してバイクを押し続けるような気力もなく、とりあえずは、国道そばまで戻って今後の展開を考えた。私が20代だったとしてもハードなスケジュールをこなしてきた今となっては、動いてくれる保証がないバイクを押す気にはとてもなれないし、バイクを諦めたとしても、駅がどれくらい遠くにあるのかもわからない。駅は一体どこに……と思ったところで、道の駅に警察署があるのを思いついた。
そうだ、あそこへ行って指示を仰ごう。

「すみません。『ボランティア』をしに東京からバイクで来たのですが、動かなくなってしまって帰れなくて困っているんです」
と、仮設の警察署に入って、整備不良を咎められないよう、ボランティアで来たことを強調していうと、
「それは大変だ。ちょっと戻ったところにバイク屋さんがあるから、そこへ行くといいよ」
「もういい時間ですが、まだ開いているでしょうか?」と、思った以上に好意的な対応にホッとしながら聞くと、
「津波の直後も、バイクを貸し出して、いろいろ力を貸してくれたいいバイク屋さんだから、大丈夫だと思うよ。よし、連れてってあげるよ」
「え!? 有難うございます!」というわけで、整備不良のバイクに乗った不良ライダーを、気仙沼の警察官様はパトカーでバイク屋さんまで送ってくださった。本来なら、不良ライダーとして護送されていたっておかしくなかったのだが。
何より、通り過ぎてきた警察署よりバイク屋さんの方を思い出すべきだったはずだが、エンジンが止まらないよう必死だったため、まるで視界に入っていなかったようだった。
5分も走らないうちにバイク屋さん・モトショップヒロノさんへ到着。店には明かりが灯っていて、どうにか相手をしてもらえそうだった。気がつけば、すっかり日暮れの時間になっていたのだ。
深々と頭を下げつつ、パトカーを見送ると、私と同世代と思しき店主さんへ事情を話した。
「そうでしたか。バイクはどこにあるんですか? 軽トラを出しますから、取りに行きましょう」
うっ、申し訳ないけれど、まあそうなるよな。
「道の駅のちょっと先です。本当に、こんな時間に申し訳ありません」と私が言うと、
「いやいや、東北のために来て下さったんですから、大したことじゃないですよ」と、泣ける返答を。警察官様がいいバイク屋さんと言っていたのは本当だなあと思った。
軽トラにバイクを積むのを手伝い、お店まで戻ると、早速バイクをチェックし始める店主さん。この時間から見てもらうなど、ただただ申し訳なかった。
しばらくその様子を見守っていると、手を止めた店主さんがこちらを見て、
「お客さん、これは長距離走ってくるようなコンディションじゃないねえ」と呆れ顔で言った。
「はあ……どうも済みません」もう、そう言うしかなかった。
中古車だか、貸し出し用だかのバイクのバッテリーから配線して私のバイクにつなぐと、何の異常もなくエンジンがかかり、私のバイクのバッテリーも上がっているようで、プロのチェックからしてもジェネレータの不良であることが明らかになった。
そうした点検の20分ほどの間、店で飼っていると思しき白い子犬がいるのに気付いた私は、何とか店主さんの労に報いたいと思い、荷物からスケッチブックと鉛筆を取り出し、元気よく動きまわるワンちゃんを描いてあげることにした。
店主さんの母上だろうか、事務所にいた年配の女性に「この子の名前はなんというのですか?」と聞くと、
「バロンですよ」とのこと。男爵か……と思った私は「オスなんですね?」と聞くと、「いや、メスですよ」と、意外なお返事。……まあいいや。
かつても生きた犬を似顔絵として描いたことがあり、名前を呼ぶと、一瞬でもこっちを見てくれることを知っていた私は、時折「バロンちゃん! バロンちゃん!」と呼びながら、必死に鉛筆を走らせた。
何度も書いているように、ハードすぎる一日に疲弊も限界まで来ていて、元気な時だって激しく動きまわるワンちゃんを描くのは遠慮したかったくらいだったのだが、迷惑をかけている店主さんに何か報いたかったのだ。
まだ点検作業中の店主さんを尻目に、どうにか絵も仕上がったが、コンディション的にも描く対象的にも満点の出来とはいえない仕上がり。うーん、これで喜んでもらえるだろうか……と思いながら、母上であろう女性に、スケッチブックから切り離した絵を渡し、「代金が何とかという話ではないので、せめてものお礼ということでどうかお受取り下さい」というと、「まあ、有難うございます」と、にっこり笑って受け取ってくれた。
やがて店主さんは点検と終え、先に書いたような結果報告をしてくれ、「ジェネレータを交換しないとダメみたいですけど、どうしますか?」と聞いてきた。
「……修理費はどれくらいになるでしょうか?」と聞くと、「さっきネットで調べたけど、工賃込みで7~8万くらいかかりますね」とのこと。
私は考えた。もう13年くらい乗っている、今までで一番長く乗ってきた愛着あるバイクだ。だがここ数年は、通勤にも使わなくなり、月に1~2度乗ればいい方だったし、そのせいもあってコンディションを悪くしていたところもあった。400ccともなると、軽自動車より高い重量税もかかるし、東京まで乗って帰ろうとすると10万円近い出費となり、今の自分の立場には無理のある出費だ。
「こちらで、廃車して頂けますでしょうか?」と、私は言った。不充分なコンディションのところ、福島を経由して500km以上の長距離に持ちこたえてくれ、大きな仕事のために役に立ってくれたのだから、ここがいい潮時なのかも知れない……そう思ったのだ。
今日の分の工賃と手間賃の分の費用を払い、東京に戻ったのち、廃車に必要な書類をファックスする……という段取りで、手続きをお願いすることになった。
今支払う分の計算をしに、事務所へ入っていった店主さんは、母上から絵を見せてもらったらしく、
「うわあ、そっくりだねえ!!」と、率直な意見なのがわかる有り難い声を上げてくださった。本当に不安な仕上がりだったのだが、お愛想で言っているのではない反応に、描いて良かったと思った。

2~3千円の支払いを終えた私は、パトカーで送ってもらう途中に、バイクが動かなかった場合どうしたら良いかなどを聞いたところ、「今はホテルも旅館もいっぱいで泊まれないと思うから、駅の待合室に泊めてもらったら?」との返答をもらっていたので、警察が推奨する方法なら、駅員さんもダメとは言うまいと思い、とりあえず気仙沼駅へ向かうことにした。
この辺りで一泊するのは仕方ないとして、待合室のベンチは勘弁だなあ……と思いながらも、駅前のホテルや旅館を当たれば、ひょこっと空きが見つかるかもしれないと思っていたのだ。
駅前は、概ね想像した通りの規模で、小ぢんまりとした繁華街が見られた。
駅のすぐ前に大きめのホテルがあり、ひょっとしてここなら……と思ったが、フロントで聞いてみると、キッパリと「満室です」とのお答え。「他も……多分そうでしょうね」と追って聞くと「多分そうです」とのお答え。気仙沼の警察官様のいうことはことごとく正しい。(泣)
しつこく探して、最上階のスイートルームが素泊まり5万円とかでも困るので、諦めた私は駅へ向かい、待合室がどこだかをとりあえず確認した。自動ドアを開けて入ってみると、普通にベンチが並んでいる待合室。とてもではないが、寝るために出来てはいない。
「まあ、しょうがないか」と思った私は、激しい空腹に気づく。時間ももう21時を過ぎていた。
せめて腹ごしらえをしようと、繁華街をうろついてみると、落ち着けそうな定食屋さんなどは見当たらず、食事ができそうなのは居酒屋さんくらいしかなかった。
地元の常連さんたちであろうお客で、そこそこ賑わっていたお店のカウンターに腰を据え、
「予算1000円くらいで何か定食みたいなものを頂けませんか?」メニューに定食がないことを確認した私は、女将さんに頼んでみたところ、快く応じてもらえたが、ご飯が無いということで、焼きうどんと揚げ物や小鉢などを出してもらい、美味しく頂いた。
食事を採りながら、女将さんや店員さん、近くに座っていたお客さんなどに、ボランティアで来た経緯を話し、津波の時は、この辺りまで波が来たことなどを伺った。被害が比較的小さかったエリアで、駅周辺も被害があったようには見えなかったが、海から1kmはあるこの辺りまで波が来たというのは、やはり脅威だ。
食事を済ませた私はホッとして、色々とあったけれど、どうにか本懐を遂げた実感が湧いてきたためか、一杯やりたい気分になった。そもそもここは居酒屋だし。
「ヘルメットを持ってますけど、動かなくなって国道沿いのバイク屋さんに置いてあるので、焼酎のロックを頂けますか?」と女将さんに言うと、半信半疑という表情を見せたが、この時間からバイクに乗るでもないだろうと思ったためか、黒霧島のロックを出してくれた。福島でも黒霧島が当たり前のように置いてあったのには驚いたし、宮城県もそうなのかと思うと、芋焼酎の普及度に改めて驚いた。
結局、3杯ほど頂き、バイク屋さんで払ったのと同じくらいのお代を払って店を後にした。宿泊費がかからなかったことを考えれば、安いものだ。
さて、あとは寝るしかすることがない。
駅の方へ歩いて行くと……駅舎はひっそりしていて灯りも消えている。時計を見ると22時を10分ほど過ぎていて、待合室の前まで行くと、22時に閉まると書いてあるではないか!
「げーっ、最後の頼みだったのに、どうしたらいいんだ!?」と、途方に暮れた私は、さっき諦めたばかりの宿泊以外の方法を考えた。駅に人の気配はないし、流石に近隣の民家の呼び鈴を押したりするのは不味い。駅周辺を見渡すと、ロータリーの脇に、レンタル自転車ありなどと書かれた観光案内所のような小ぶりの建物があり、入り口の上には、3~4mせり出した屋根があって、更にその下にはベンチがあり、そこならどうにか夜露をしのげる。東北地方とはいえ、幸い猛暑の続く夏で雨も降らなそうなので、どうにか寝られそうだ。
「うう、結局野宿か……」そう思うと泣きたくなったが、他に手はない。駅舎へ戻り、始発の時間を確認し、その30分前に携帯電話のアラームをセットした。観光案内所が開く前、いや、駅員さんが来て浮浪者と間違われる前に起きて始発を待ちたかったのだ。
大船渡の公民館の時と同じく、タンクバッグを枕にして横になると、激しい疲れと焼酎のロックのせいもあってか、一日を振り返る時間もないまま、私は眠りに落ちた。人間、疲れも極まれば、どこでだって眠れるものだ……。

翌朝、アラームで目を覚ました私は、スクっと立ち上がって切符売り場へ。少しでも気仙沼の皆さんにみっともないところをを見られたくない一心だったと思う。
無事始発の特急へ乗り込み、仕事の残る相馬市へ向かった。時間的には充分な睡眠であり、よく寝たという実感もあったけれど、車中では再びグッスリ寝てしまった。

仮設住宅の作業の方もヤマは越えており、それほどハードな作業にはならないはずで、東京へ直帰したって構わないくらいだったと思うのだが、仮設住宅として利用に耐えるものかどうかを役所の人がチェックし、不備があれば対処をしなくてはならず、それは居住性とは関係ない外観についても指摘がありうるとのことだった。
私以外に出来る人がいない壁の凹みにパテを打つ作業も発生しうるそうなので、もう2日ほど滞在することになっていたのだ。

結局、パテ打ちの必要ななく、塗料や道具の掃除などを終え、そもそも飲み友達だったM氏から呼び寄せられた、これも飲み友達であるN氏が車で東京へ戻るというので、便乗して帰ることになった。
私の不在中に相馬市へ来たN氏は、現場との行き来以外に被害の様子を見ていないというので、どこに何があるかわからないながらも、海沿いの方へ向かい、津波の爪痕を見てきた。
ここで多くの人が命を失ったのかと思えるような光景を見ることは出来なかったが、やはり惨状は惨状であり、N氏も改めて言葉を失っていた。

その後高速へ入り、ウチの前まで送ってもらい、N氏によくお礼を言って、ほぼ3週間ぶりとなる帰宅となったが、とりあえず私は、溜まりに溜まった疲労感に耐えかね、着替えもそこそこに寝床に就いた。
横になってこの3週間ばかりのことを考えると、仮設住宅の仕事ややっぺし祭と似顔絵のボランティアなど、「今できること」をするために全力を尽くし、この歳でここまでハードなことをすることになることになろうとは……と思うほどでもあったけれど、自分が出来たことなど、地震や津波の規模や、被災した方々の心労や苦労や痛手に比べれば、申し訳ないほどの微々たることしか出来なかったのだなあと思えた。
挙句の果ては、バイクが動かなくなり、ボランティア難民になりかかったりするなど、あってはならない迷惑をかけたりもした。
確かに可能な限りの「今できること」をしたのだけれど、達成感にひたれる気分ではない感じだった。自分の至らない部分がそうさせているのでもあり、繰り返し過ぎなくらい書いたことだけど、今回地震や津波の被害は、大きかったということでもあるんじゃないだろうか。

この後、どれくらい被災地と関わることができ、被災した方々に対して何ができるのか分からないけれど、せめて自分が見てきた2011年の東北のことを、忘れまいと誓った。