13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

「結婚できない男」考

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

また絵描きだかデザイナーだかのブログとしてどうなのかと思うTVドラマの話を書こうと思うのだが、「結婚できない男」の続編の「まだ結婚できない男」というドラマをご覧になっただろうか。

一作目が13年前の夏頃に放送され、今年の秋に続編が放映されたこのドラマは、私と同様クリエイティブな立場の阿部寛(以降敬称略)が、建築家という設定である。
クリエイターであるがゆえに……というべきか、非常に偏屈で、人と関わることを好まないため社交性が低く、それゆえ孤独を好む……というよりは群れることを嫌い、空気を読むことに価値観を感じないためか、悪気はないのにズバズバと人を貶めるような発言をし、しかもそれが案外正論なので、関わる人を不快にさせながらも、良くも悪くも周囲の登場人物たちに強い影響を与えたりしている。
また、建築家という立場もあってか博学で、蘊蓄を傾けるのも好きだったりもする。
そして、主婦並みに掃除や料理などの家事も卒なくこなし、男1人で生活していく上で不自由がないため、結婚にメリットがないとすら言い放っている。
そんな主人公である桑野信介をとりまく、人々との間に展開するコメディタッチのドラマが「結婚できない男」であり「まだ結婚できない男」なのである。

なぜこのドラマについてブログを書こうと思ったかというと、主人公である桑野信介という人のあり方に、他のドラマと比べて共通・共感できる部分が多かったからであることに他ならない。
私の見てくれをご存じの方は、「阿部寛」をつかまえて何が? と思う方がほとんどだと思うけれど、そうではなくて、描かれている人物像や、発する言葉や在り方などに共感する部分が多いということだ。

まず、ドラマの根幹の部分である「結婚」ということに関心が薄いということもそうだし、そもそもクリエイターという部分で共感がある。
知識欲が旺盛なため博識(な方)であって、薀蓄を傾けたがる傾向があるのもそうだし、正論(らしきもの)で論破したがるのも、私自身に思い当たるところがある。
私はどちらかというと社交的な方だと思うけれど、独りで行動するほうが好きなことも多いし、どちらかというと群れをなして安心するようなことも少ない。

仕事の取り組み方にしても、(特に1作目では)名誉や収益よりも自分の納得性を優先して取り組むため、少し妥協すればメリットの大きい仕事も客の態度や考え方が気に入らないと断ろうとするあたり、私もどこかデザイナーとして身に覚えがある。
1作目の第6話で、

「ポリシーの合わない人の家を作ってもいい仕事ができるとは思わないんですよ」

「自分が向き合っているのは(客ではなく)家なんです。僕はただ、いい家が造りたいんですよ」

などというセリフを阿部寛演じる桑野が発するのだけれど、この辺りは絵描きとしての私の姿勢と大きく通じるところがある。
私が絵描きであることを自己紹介するような場面で「買ってあげるから今度持っていらっしゃい。何でも良いから」などと言うような「絵画=金」と考えているような人には決して売らないし、また、収益が発生する前提で描く絵は、自ずとお金に変わる絵という時点で絵描きには足かせになるような部分があると考えているし、とにかく他の何よりも自分の納得いくものを世に出し、その上で共感を得ることが大事だという信念がある点では、これまでに映画や小説やドラマで描かれてきたクリエイティブな立場のどの人よりも共感できる部分だったのだ。

それ以外にも、年齢は桑野が私より1つ年上で同世代だし、名前もシンスケ。あっちは信介でこっちは伸介だけど、シンスケという主人公は少ないし、しかも同世代だと、(見てくれの大きな差はあれ)どうも他人のような気がしない。
さらに使っているFAXや携帯電話が色違いだったり、着るものやヘアスタイルに無頓着だったり、オーダーする飲み物はミルクティーだったり(続編ではコーヒーが中心だったけど)、使っている整髪料も私が使っていたのが2本ほどあったりと、ところどころで自分のことを描かれているのではないかと錯覚することがあったほどであった。

確かに、建築家というそもそもの職業が違ったり、向こうは事務所を構えられるくらいには成功しているクリエイターだし、執拗に部屋を清潔に保とうとしたりしないし、指揮しながらクラシックを聞いたりしないなどの差異も少なくないのだが、他の点でこれほど共通点のある主人公が他に見られない以上、共感を持つのは私の自由である。
1作目に関しては、もう、大まかにセリフを覚えてしまうくらい何度も観てしまった。

で、今秋の続編。
私としても大いに楽しみにしていたのだけれど、続編にはありがちな違和感が各所にあったり、前作の出演しなくなった登場人物について、設定がほぼ同じなのだから、もう少し触れてほしかったし、桑野が著名な建築家になってしまって、親近感を持っていた私としては「置いて行かれた気分」になったし……と、至って個人的に残念だった部分はあったけれど、1作目からキチンと引き継がれた、極めて細部にまで面白みを盛り込もうとしているあたりは期待を裏切らないドラマになっていたと思っている。

13年もの月日が経つと、見比べれば阿部寛も老けたなあと思うし、草笛光子もお年を召されたなあと思う反面、塚本高史や棟梁(不破万作)、尾美としのり、三浦理恵子などは、年代がバラバラながら、あまり13年の年月を感じさせなかったのが印象的だった。

家族以外の女性陣、つまりヒロインやら準ヒロインやらは、総入れ替えになっているのだが、この点についてはオトナの事情ってやつが絡んでいるので、やむを得ないところだろうか。

弁護士役の吉田羊は、我が故郷の鹿児島が舞台の「六月燈の三姉妹」では、福岡県出身とはいえ唖然とするほど自然な鹿児島弁を披露していたりなど、達者な役者さんなのは大いに認めるし、弁護士役もピッタリだったけれど、前作のヒロインで女医役の夏川結衣(早坂役)と比べると、女性らしい可愛らしさとか軟らかさというか、もっと言えば華が控えめだったのが惜しかったかと。(多分に個人的な印象です)

華という点では、稲森いずみがある程度補ってくれていた感があるし、阿部寛との身長の釣り合いも良かったけれど、コメディであるなか、コミカルな演技を披露する場は少なく、前作で置き換わる位置であろう高島礼子(沢崎役)と比較して人としての関わりも薄めだったし、壁の花扱いだった感が否めず、もう少し表情豊かな演技が見られると良かったなあと思う。(ここは結構客観的な印象)

そして深川麻衣。マンションの隣人という点で前作の国仲涼子(みちる役)にあたる役だが、駆け出しの女優という役回りを見事に演じていたのか、それとも……と書いてしまっては皮肉が過ぎるだろうか。
せっかく顔を覚えたので、出演作に気づいたら観てみようかとは思っている。

前作は視聴率も好調で、12話あったのに対し、続編は10話で視聴率も伸びなかったよう。
10話で終わるドラマも多い昨今だけれど、12話分は放映してほしかった。視聴率低迷で短縮されたのかと思ったが、姪役の平祐奈のInstagramに、「台本がカラフル」と1〜9+最終話の背表紙が紹介されていたけれど、この点から考えても10話までとして制作されたようだ。

「人生100年」というのが、続編中の一つのキーワードだったと思うけれど、53歳となった桑野の生き様について、もう一回くらいは期待したい……と思うけれど、やはり続編はないだろうなあ。

どこか世の評判はさておき、気に入って観ていたドラマの続編を観られたのは、良いことの少なかった今年の、数少ない胸ときめく出来事だったし、いつかこのドラマについて書こうと思い、続編の放送開始時、放送終了時など、機を逸して来たので、今年最後のブログにしたく、黙っていられませんでした。

毎度、長文のブログにお付き合い頂き、有難うございました……というお礼も黙っているわけにはいきませんな。

大捜査線

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

前回のブログで、少々ケチを付けるような内容を書いてしまったので、早めに責任をとっておこう。

これも前回書いたとおり、「ゆうひが丘……」の放映が終わった後に「大捜査線」なるドラマが始まった。
そういえば、織田裕二(以降敬称略します)の主演ドラマでも「踊る」付きだが似たタイトルのドラマがあったが、今回書こうとしているのは杉良太郎主演の方。
放映年も1980年、つまり私が中学生の頃で、時代劇のイメージが強かった杉良太郎が、現代の刑事役に挑んだ異色のドラマであった。
当時の私にも杉氏に対してうっすらと認識はあり、髷のついたカツラなしの杉氏を意外に思ったのを覚えている。
放映前の番組CMの映像でも、結構激しいカーアクションがあり、杉氏扮する加納明の愛銃はコルト・パイソン357マグナム・6インチと、大ぶりで個性的なヤツを使っていたりとか、当時の私からすれば内容的にもキャスティング的にもなかなか興味深く思えていたのだ。

で、今週の火曜日の第一回の放送日。
私は、中学生の頃の気持ちに戻りつつも、その後いくつものドラマや映画を見てきた立場としても、興味津々に番組を観てみた。
オープニングの曲も、今聴けば時代がかっているというか、任侠モノの映画のテーマ曲のようなのを気にしなければ、なかなかインパクトの強い仕上がりだし、加納明がどんな立場でどんな人物なのか、説明的に描写せず、台詞を追っていくごとに次第に分かってくるような凝った作りになっていて、なかなか引き込まれる。
劇中のカーアクションにしても、車内からフロントガラス越しの光景を見せてスピード感を出すなどの演出にも目を開かされたし、とにかく主演の杉氏がカッコよく見えるように尽力したドラマであることはよく伝わってきた。
時代劇スターにしておくには勿体ないほど長い脚を開き、両手で体の中心にパイソンを構える射撃姿勢も個性的だし、何よりスリーピースのスーツがよく似合う。
現代劇ということもあって、語り口も抑えめだったりして、見事に時代劇との使い分けはなされているあたりも、流石と言ってよいのではないだろうか。(とるべき責任・その1)

また、「ゆうひが丘……」にも出演していた神田正輝も、同じく準主役級で出演していて、そこから2年が経過して経験を重ねてきたためか、台詞回しにも上達がみられ、少し安心して観られるようにもなっていた。(とるべき責任・その2)

ヒロインに当たる本阿弥周子は、よく知らない女優さんだったので調べてみたところ、時代劇などに多く出演していて、どちらかというと悪女役が多いとの記載を見つけたが、なかなかの美人で、加納明をサポートしつつ寄り添っている感じも、美人秘書のようで好印象。

だが!
スポッと取り外せるのではないかと思えるような杉氏のヘアスタイルとか、パイソンを撃った瞬間、自分が撃ったのにビックリしているかのようにパッチリと目を閉じてしまうあたりとか、独特な射撃姿勢にしても、長い脚が災いして極端なガニ股に見えたりとか、杉氏をカッコよく描こうとすればするほど、それらのイマイチな要素が浮き立ってきて、強烈な違和感を覚える結果となっていた。
昔、加藤茶が「現代劇に出演しているのにどうしても見得を切るクセが抜けない歌舞伎役者」を演じたものとか、(恐らく影響を受けたのだろうけれど)内村光良が「現代劇に出演しているのに時代劇の喋り方が治らない時代劇役者」を演じたりとか、どうにもそういうコントを彷彿させて、カッコよさやシリアスさの邪魔をしている感が否めなかった。
トドメはエンディングテーマ。べらんめえ調の語りから入り、いかにも演歌チックな唱法で展開し、杉氏自身が作詞したこの曲も、パイソンを木製の鞘に収まった日本刀に持ち替えた方がしっくり来る仕上がりだ。

更に細かいことを書くと、至近距離からショットガンで撃たれて散弾を受けたはずのに、血が吹き出すのが一箇所だけだったりとか、幾ら357マグナムだからといって、加納明があの射撃姿勢で車のエンジンあたりをズドンと撃ったからといって、すぐにエンジンが止まってしまうほど日本車はヤワじゃないと思うし、その道の第一人者であるトビー門口氏が、火器周りの監修をしていたはずなのに、不自然な描写もチラホラ。
ウィキペディアを参照したところ、台詞にも警察の専門用語が多用され、リアリティを追求しようとしていたらしいのだが、火器周りの不自然は、中学の頃の私でも気が付いだのではないかと思うほど、残念なものを感じた。

とまあ、そんな感じで、制作側も失敗を認めたという噂の刑事ドラマの一回目を観終えたのだけれど、時代劇スターの起用や斬新な演出やシナリオなど、多くの個性や能力が結集して挑んだドラマだったのだと思うのだが、残念ながらそれぞれの要素が噛み砕かれて消化されることなく制作が進んでしまったのではないかと推測され、何とも惜しまれるなあという印象だった。

しかしながら、劇中の杉氏も作品自体も、現代風に言うならば「ダサかっこいい」と評して良いのではないだろうかという気もしている。
放映当時に「ダサかっこいい」という言葉は存在せず、つまり「カッコいい」とか「可愛い」とか「きれい」とか「笑える」とか、単一的な価値観が併存しているのが普通とされていたのが当時のドラマの在り方で、世の中もそういうトラディショナルな価値観でしか作品を評価できなかったから失敗した……つまり視聴率が上がらなかったと考えられる。
「ダサかっこいい」とか「キモ可愛い」とかみたいな、相反するものが同居しているものについて評する言葉は、その言葉が誕生したことでカテゴライズされ、存在価値を持つようになっていったと思う。
つまり、「ダサかっこいい」このドラマは、今観ると結構楽しめるのではないかと、初回放送を見終えて確信した次第である。(とるべき責任・その3)

そうした確信を裏付けるように、放映が終わった第三話まで興味津々に視聴したし、更に来週月曜の第四話が今から待ち遠しい。
色んな角度から楽しめそうな「大捜査線」。今後再放送されるのがいつになるか分からないことだし、是非皆様もご覧あれ。

「ダサかっこいい」と、賛辞のつもりで書いては来たけれど、杉氏からすればやはり不本意かも知れないなあと思いながらも、(運転時に)違和感を感じるという理由から運転免許を返納した英断は、素直に惚れ惚れするようなカッコよさだと思ったことも付記しておこう。(とるべき責任・その4)

以上、これはテレビ番組評ブログかよと思いつつも、取るべき責任を果たしてホッとしたいばかりに、黙っていられませんでした。

ゆうひが丘の総理大臣

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

今日最終回だったのだが、「ゆうひが丘の総理大臣」というドラマがTVKで再放送されていた。
厳密に言うと、同じTV局で二度目の放送となった場合が再放送であり、TVK的には初放送であるためか、番組表に[再]の記載はなく、便宜上再放送と書いたが、本当は別な呼び方があるのかもしれない。

で、初回の放送は1978年(日テレ)だったそうで、私が小学五年の頃。20時からの放送だったようで、番組のCMで主題曲を何度も聞いた記憶があるため、地元でも放映されていたと思うのだが、1話も観たことがなかった。放映時間的にも観ていておかしくなかったのだが、理由は思い出せない。

ともあれ、若い頃の中村雅俊(以下全て敬称は略します)のドラマは好きだったし、観てみようと思ったのだが、気が付いたのは10話目だったのが少し残念だった。
原作であるコミックも読んだことは無かったけれど、昭和の学園ドタバタコメディドラマなのだろうと思うと、観ていてしんどくなるかと思いつつも、観始めると週の前半に連日放映してくれることも手伝って、ちょっとした楽しみになってしまった。
「ご存じない方のために……」というにも大雑把すぎる内容の説明をすると、中村雅俊演じる(以下敬称略します)高校教師が舞台となる「ゆうひが丘高校」に赴任したところからドラマが始まり、教師と生徒、教師と教師、下宿先の住人などとの間で、青春やら友情やら人間関係やら、あるいは教育のあり方などについて、笑いあり涙ありで描かれる一話完結型のドラマであった。

観てみると、やはり昭和の学園ドタバタコメディ。中村雅俊のベタな三枚目ぶりとか、神田正輝の台詞回しの雑さとか、生徒たちの大きい芝居とか、令和のオッサンの目から見ると、トホホな感じも見受けられたが、印象に残っているそれ以降のドラマ群から比べれば新鮮にも感じられたし、昭和の頃はこうしたわかり易さがドラマには必要だったのかもしれないとも思えた。
まあ、一番目を見張ったのは職員室の顔ぶれで、教師役をやっている役者さんたちだけで、何本もドラマが撮れたのではないかと思うほどだが、令和の今からすればそう見えるだけで、当時は標準的なキャスティング(というか役者に払うギャラの予算)だったのかも知れないが、制作費不足に苦しむ今のテレビのことを思うと、やはり贅沢なキャスティングだったように思う。
そもそもテレビがメディアの主役だった時代のゴールデン枠のドラマであり、1年通して放映する予定だったわけだから、キャスティングも中途半端に済ませるわけには行かなかったのだろうけれど。

ドラマの造り的にも、エンディングテーマが流れ始めると、その回のストーリーを総括するようなシーンをセリフ無しで構成して流していたりしているあたりにも、昨今のドラマにはない贅沢さが感じられた。

ドラマの冒頭には、「一部不適切な表現も含まれますが制作当時のオリジナリティを尊重し……」と、今の時代に放映するからこそ必要となる字幕が表示されるのだが、それもその通り。
今ならセクハラだと言われそうな言葉遣いとか、プライベートな事情が元で教師同士で殴り合ったりとか、毎回のように生徒たちが仕掛けた落とし穴に教師である中村雅俊が落ちた後に、頭上のバケツから水が降り注ぐようなイタズラをするシーンとか、感極まった教師が生徒の頬を叩いたりとか、平成のモラルに馴染んでしまった立場からすると、少なからず愕然とするシーンが多数見受けられたのだが、そうしたシーンを今観てみると、どこか人間が人間らしく描かれていて、少しホッとするような気持ちになったのも事実であった。
いい時代だったんだな……と、ありきたりな感想を持ちつつも、その一方で「不適切な表現」が描かれなくなった昨今のドラマからは、人間臭さすら削除されているのだろうか……とも思えた。

40年ほど前のドラマだけあって、出演者の皆が若く、チラホラと他界された役者さんもいたりして、そのあたりも今観る昭和のドラマの醍醐味の1つではあるけれど、当時あまり魅力を感じなかった岡田奈々が、目映いほどの可愛子ちゃんだったことが、このドラマを見た中での一番の収穫だった……かな?

「ゆうひが丘」が最終回だった今日、明日からは、主役も制作陣も、自ら失敗を認めているという話を聞いたことがある、杉良太郎主演の刑事ドラマ「大捜査線」が始まる。う〜〜む、観始めたらそれなりに次回が気になるのかなあ。

以上、あまり昔は良かった的なことは書きたくないのだけれど、黙っていられませんでした。