13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・其の08

7月9日、仮設住宅の現場に入ってからの平均的な時間に作業を終えた私は、旅館へ戻ると大船渡市へ向けての一時離脱のための準備を進めた。
翌10日の午前中には、前出・Y氏が参加しているイベントに参加し、似顔絵描きをすることになっているので、到着が早いに越したことはないのだが、色々と我が儘を聞いた上で働かせてもらっている関係上、早退したいとは言えなかった。
この現場へ来る前は、私の仕事が終わりになるのは9日までのはずだったのだが、これまた前述の通り、作業には遅れが生じていて、他に発生するかも知れないトラブルに備える意味もあって、12日には現場に戻る事になってもいたのだ。
苛烈を極める現場仕事を終え、似顔絵描きで完全燃焼して東京へ戻るのが理想だったのだが、折角好待遇で仕事が出来るのだから、もう2、3日働くのもアリか……というのも本音だった。

さておき、大船渡での唯一の足がかりとなるY氏とは、近所のバーで「参加すれば似顔絵を描くボランティアが出来る」という確認をとっただけで、そのイベントの詳細について何も知らないままだった。
Y氏にしても数回バーで話をしたことがあるだけであって、美大出身のY氏がボランティアとして参加していて、似顔絵を描くスペースや機会を与えられるのだから、何か美術系のイベントなのだろうと、私は勝手に決めつけていた程度だった。
要するに私としては、似顔絵を描いて被災した方々のせめてもの慰みになれれば、イベントがどんなものであるかすらどうでも良かったのだ。

Y氏に「イベントに参加できる」と、ハッキリとした意思表示をしたのも現場に来てから2、3日経過してから携帯電話のメールでしただけだったし、その時でさえオオフナトシという目的地の名称すら記憶が曖昧な有様で、どこへ集合したらよいのかとか、大まかな道順を聞いたのも出発の前々日だった。
Y氏からの返事のメールには「……から2時間半くらいで到着」と書かれていた。受信直後の私は、激務を終え、入浴を済ませたのち、ヴォリュームたっぷりの食事を残さず食べるという大仕事をこなして、どこか朦朧としていたので、旅館からY氏と再会するまでは、多めに見積もっても3時間くらいなのだろうと認識していた。

荷物をバイクに積み、いざ出発しようと思うと、もはや21時過ぎ。Y氏が宿泊している公民館に到着する頃には日付が変わっているかも知れない……と、思った。とにかく急がなくては。
と、そんな焦りもあったためか、出発間近にコンビニエンスストアで飲み物を調達しようとバイクから降りようとしたとき、買ってから数回しか履いていない安全靴(ライディングブーツ代わり)が荷物に引っかかり、みっともなくバイクごと転倒してしまった。
下半身は全体的に軽く筋肉痛で、思ったより脚が開かなかったのと、履き慣れていない安全靴と積んでいた荷物の高さとを充分に認識できていなかったのが原因だったと思う。
慌ててバイクを起こし、飲み物を飲み終えて出発しようと思うと、左足の違和感に気付く。
「うっ、ステップが折れている」
立ちゴケしたときに、起きたことだったらしい。同じような立ちゴケは過去にも無くは無かったし、それでステップが折れるなんて信じられない気分だったが、何ともさい先が悪い。
左側のステップは、走行中に足を乗せるだけでなく、リアブレーキのペダルも付いていて、そのどちらもがフレームから欠落していたのである。
「修理は東京に帰ってからということになると、これから先の道中はリアブレーキ無しか」
……と思うと、何とも心細かったが、まあバイクの走行中に比較的リアブレーキは使わないし、足を乗せる場所は2人乗りの時に同乗者が乗せるステップで代用できる。何より、この程度この事で大船渡行きを諦めるわけには行かないので、構わず走り出し、やがて東北自動車道へ乗る私であった。

Y氏のメールによると、高速を降りたのち、国道284号線から国道45号線と渡っていけば目的地の公民館に到着するとのことであり、私はサービスエリアでの給油などの機会に地名などをメールで確認していたのだが、ふと時間を見るともう24時間近。降りるべき一関の出口までにはもう少しかかりそうだ。
おかしい……と思った私は、もう一度メールをよく読んでみた。
「しまった! 2時間半というのは高速を降りてから公民館までの時間だった!!」
ギョッとした私は、想定したよりも遅くなりそうだとY氏に連絡を取ろうとしたが、こちらの様子を察したかのようにY氏から電話が入る。
「仕事も早く抜けるわけには行かず、到着は明け方になるかも知れません」と、そろそろ寝たいというY氏に告げ、連絡が遅くなったことを詫びた。
Y氏によると、45号線にゴンゲンドウという大きめの川に橋のある交差点があり、近くにある目印というと、そこくらいしかない……との事だったので、本当は迎えにくらい来て欲しかったのだけれど、遅くなるという連絡も遅れてしまったし、これ以上迷惑はかけられない。
駐在所の巡査さんを叩き起こしてでも到着しよう、と私は決意した。

読解力を損なうほどの疲労のせいで、かかる時間を勘違いし、Y氏にも心配を掛け……と、ステップの折れたバイクで国道284号線を走っていた私は、意気の消沈を禁じ得なかったが、国道45号線へ入るのに失敗したらしく、山あいの民家が点在するような峠道へ入ってしまった。やるせないったらありゃしない。
結局、相馬市の旅館へたどり着いた時のように、カンにまかせて走っているうちにどうにか45号線に乗ることが出来た。
国道に出ると、コンビニエンスストアが見付かり、水分補給とトイレがてらに店員さんに確認をとった。
「ゴンゲン……何とかっていう場所はこの先ですか? 下富岡公民館という場所が近くにあるか分かりますか」
「……そうですね。権現堂はこの先です。ただ、下富岡公民館はこの地図でもわかりませんねえ。どうしてもという場合は、途中に警察署がありますから」と、わざわざ地図を出して調べてくれた店員さんに礼を言い、再び出発した。
Y氏の説明通り、川の近くに権現堂という交差点を確認できたが、ちょっと周辺を走ったくらいでは公民館は見付からなかった。
「店員さんのアドバイス通りにするか」
ステップの折れた整備不良の状態で警察署へ行くのは抵抗があったが、このさいやむを得まい。駐在さんを叩き起こすよりはずっとマシだ。

警察署へ入り、カウンターの向こう側に2、3人いる巡査さんに下富岡公民館へ行きたいと話すと、「そこへ何の用かね?」と、日焼けしてヒゲ面で小汚いジャンパーを着ていた、ヘルメットでも持っていなければホームレスと紙一重の風貌の私に、巡査さんも尋問口調だったが、「似顔絵描きのボランティアで……」と事情を話すと、「おお、そうでしたか。おい、ちょっと誰か、下富岡公民館って知らないか」と、他の巡査さんにも協力を要請し、地図を調べてくれた。
権現堂の交差点から橋を渡ったのち、右折後左折……と、クランク状に曲がった先が公民館であった。

到着すると既に夜はすっかり明けた四時半。駐車場にバイクを停めて様子を窺うと、ほぼ民家くらいの規模の公民館はひっそりとしていて、本当にここにY氏がいるとしても、探しようがなさそうだった。
どうしたもんかなあと煙草を吸っていると、中から初老の男性が起き出してきた。
チャンス! とばかりに小声で話しかけてみると、
「そうです。今日のお祭りのボランティアの方が来てますよ」とのことだった。
(……お祭り?)と思いつつも、まあここでほぼ間違いないだろうと思った私は、安堵と共に強い疲労感に襲われた。
忍び足で建物の中に入り、廊下と部屋を仕切っている襖をそっと開けてみると、男女入り乱れて雑魚寝している光景が目に入る。
これでは荷物を置いて寝るスペースを探すなんて無理か……と諦めた私は、板張りの廊下に置いてあったしっかりした大きさのサッカーゲーム(レバー操作でボールを弾いて遊ぶヤツ)のスペースに寝場所を定め、荷物を枕にしばしの休眠をとるのであった……。

…………もうちょっと続く

気がつけば被災地・其の07

さて、ここまで私は順を追って、くだくだしくも荒っぽい文章で、震災直後の私の動向から、調べたこと、考えたこと、実感したこと、見たことなどを順を追って書いてきた。
それが私見の域を出ないものであったとしても、各種のメディアでは報じられていないことを選んで書いてきたつもりだし、被災地へ行きたくても行けていない方々にとっては、それなりのニュースヴァリューがあるものと信じて、それなりの分量の費やして書いてきた。
だがこれは、震災のレポートをしつつ、一人の絵描きが震災とどう関わったかを書き記したいものなのであって、仮設住宅の現場での私の仕事ぶりとか苦労に関してはかなりの割愛を施したいと考えている。

直前のUP分までは、パテ打ちのことなども含めて現場の様子や働きぶりに関しても、比較的細かく書いてしまった気はするが、それも仮設住宅の現場の様子は震災のレポートに当たる部分だと判断したからだし、「建設現場でアンタが何の仕事をして来たの?」と思う方も多いであろうから、具体的な仕事の内容を書いたに過ぎないのだ。
実際のところ、現場にいた間の仕事のことや、人間関係やら人間模様など細かく書いてしまえば、それなりに色んなドラマやトラブルがあったし、書いてしまえばそれなりに読み応えのあるものになりそうなのだが、それは震災レポートでもなければ絵描きとしての私の在り方でも何でもないのだから。

そんなわけで、なるべく本題に沿ったことを総括的に書いていこう。

約2週間、現場にいて一番強く思ったのは、繰り返し物資も人材も不足していて……と書いたけれど、どちらかというと人材の不足の方が問題で、それが連鎖的にトラブルを起こし、作業を難航させていたのだということ。
初回のUP分の冒頭に、タイの職人の杜撰な作業のことを書いたが、実は何割かの日本人の職人とて同様であった。

私が担当していた壁面の修復という点から見ても、室内から打ち込んだ木ネジが長すぎて外壁を突き破っていたりとか、脚立や資材の角をぶつけて新しい凹みや傷が出来ていたりとか、私が作業をしている期間中にも修復箇所が次々と増えていく有様。ネジや釘のサイズを見誤るなど、中学校の技術家庭科でも落第点だ。
お陰で、手元が見えなくなる日没ギリギリまで作業しなくてはならない日が、毎日のように続く羽目になった。

それと同様に、あちこちで問題点が見付かり、現場を仕切っている地元の建設会社の指示で、まともな仕事ぶりの業者がやり直しをし、二度手間になる。もともと予算や規模が大きい割に工期は圧縮されていて、色んな業者が入れ替わり立ち替わり作業をするので、どこか一カ所で作業が滞ると、他の業者が手を付けられない作業や場所が多数出てきて、さらに作業が滞る……と、連鎖的に問題が生じていたのだ。
そんな落第レベルの職人を集めてきたのは、一つの現場に複数絡んでいるうちのどれかの人材派遣の会社であって、人材のスキルやモラルなどをチェックする余裕もなかったのか、始めからその気もなかったのかは分からないけれど、
「行けっていうから来てやったのに、道具も用意してないんじゃ仕事できない」
などと、手ぶらで現場に来て何もしないまま帰っていった職人がいたばかりか、仮設住宅と並行して建てられた集会所の備品を盗んで帰った職人も居たようだった。

現場で聞いた話では、
「同じ東北でも日本海側の県を当たれば、人材はむしろ余っていて、そういうところから良質な人材を集められなかった(現場を仕切っている地元の)建築会社に責任がある」
との事だったけれど、自ら人材を確保できない建築会社が仮設住宅の現場を仕切らなくてはならない事自体が、人材不足なのではないだろうか……と、私には思えた。
やはり普通のことが普通に出来ないほどに被害の規模が大きかったのだ……というのが、つくづく私の感じるところであった。

私が現場に入って間もなくだったか、既に出来上がっている仮設住宅で雨漏りが問題になっていると聞いたが、恐らく「人材不足」はどこの現場も似たり寄ったりだったのではないだろうか。
これも初回のUP分で書いたことをもう一度書くけれど、パテ打ちが主な仕事だったのに、2日目、3日目と作業を中断し、屋根の上で防水加工のやり直しの手伝いをすることになったのも、他の仮設住宅での雨漏りが大問題になっているのを受けての事であり、よそでの杜撰な仕事が、私のいた現場にも影響を及ぼしたと言えなくはないだろう。

現場以外の事での見聞に関しても書いておこう。
私の泊まっていた栄荘という旅館は、相馬市にある松川浦という潮干狩りで有名な観光地の傍にあった。
M氏が言っていた通り食事が美味しい旅館であり、私としては海の傍の旅館だから新鮮な魚の料理を期待していたのだが、漁船がほぼ全滅していて近海の漁業がストップしていたため、魚の料理が出たとしても干物や焼き魚が中心となっていた。
サービスも良く、宿泊費も決して高くはない綺麗な旅館なので、1年後か2年後にでも再び訪れ、新鮮な海の幸を頂いてみたいと思っている。海辺のスケッチをしに来るには打ってつけだ。

滞在中に、私と同い年だという女将さんに、
「似顔絵描きのボランティアをしたいのですが、この近くに避難所などはありませんか?」
と聞いてみたところ、
「福島は仮設住宅の造成が順調で、比較的近くにある避難所が市内で最後の避難所になっており、そこで生活している人も多くはない」
……とのことであった。
津波の被害とは別に、原発事故という深刻な問題を抱えている福島の事だから、まだまだ避難所が沢山あるのではないかと思っていた私には意外だったが、福島の場合、各市は内陸にまで広がっていて、市役所などの行政機能が失われずに済んだそうで、対応が速やかだったのだそうだ。
恐らく8月になっても瓦礫が山積みになっているという石巻市などは、被害の大きさもさることながら、津波によって行政機能が失われたために復旧が捗っていないのだろう。
寝泊まりの御世話になった相馬市で、似顔絵描きの出番が無かったのは少し残念だったが、避難所で不便な生活をしている方が思ったより少なくなっているのは喜ばしいことだ。
そんな話を聞いたのは7月の上旬だったので、お盆の時期を過ぎた今(執筆時)、少なくとも相馬市の避難所は無くなっていることだろう。
大きな難を逃れた旅館で寝泊まりしていたこともあってか、相馬市や南相馬市は、住まう人々が想像していたよりは日常を取り戻しつつあるような印象であった。

今回分の最後に特筆に値すべき事を書いておくと……。
やはり人材不足の影響と言うべきか、仮設住宅の現場はオジさんというよりは爺さんと言って遜色ない年代の人が多かった。建設現場などは、やはり女っ気の無い職場であって、至ってむさ苦しい。
旅館には女将さんや仲居さんなどに女性がいるが、やはり中高年の女性が中心だし、部屋に戻れば他4人のオヤジたちとの相部屋で(到着時より1人増えた)、寝付きの悪い私は高鼾の四重奏に悩まされたりもした。
そんな生活が1週間ほど続いた頃、M氏を含めた現場の人たちと2度ほど、現地のスナックにお酒を頂きに出掛けたのだが、斯くもむさっ苦しい男の空気の中にどっぷり浸っていた私に、スナックの若い女性の姿は、壮絶なまでに艶っぽく眩しく見えた。

次は大船渡市へ行く前日から、また順を追って書くことにしよう。

…………もっともっと続く

気がつけば被災地・其の06

出勤初日の朝、私は旅館で同室の防水加工の職人さんの運転する車で現場へ向かった。
早朝6時起きで6時半出発……。ここへ来ることがなければ、年の9割くらいは寝ているはずの、個人的には信じられない早朝の出勤である。

前夜のM氏との話し合いの中でも、私が具体的に何の作業をするかは決まっていなかった。
車で通勤を共にする防水加工の職人さんから手ほどきを受けて手伝いをするか、或いは輸入してきたものの、輸送中に歪みが生じたサッシの矯正をするか、とにかく建設や建築に関する専門的な技術がない分、指示が流動的になるだろうから、柔軟に対処して欲しい……という程度のことしか決まらなかったのだ。
こんな風で大丈夫なのか? 今夜にでも来て欲しいという切迫感がまるでないじゃないか……などと思いながら、昨夜通ってきたのと概ね同様の道を通っていくと、朝日に照らされて津波の爪痕がつぶさに目に飛び込んできた。
左手に見える海面には何台かの車が沈んでいるのが見え、路肩から歩道あたりの狭いスペースに、ドン! と大型の漁船が鎮座していたり、再オープンに向けて工事中のコンビニエンスストアがあるかと思えば、ガラス窓がほとんど割れてまだまだ営業再開の見通しが立っていないような釣具屋があったり……。
国道6号に出ると、見渡す限りの田園風景の中に、数隻の漁船が点在していたり、あらかた墓石がなぎ倒された墓地が見えたり……。
昨日は夜だったせいで何も見えていなかったけれど、私はこんな非日常的な光景の中をバイクで走り、旅館へ向かっていたのか……と思うと、大津波が来て大きな被害を受けた場所に、今自分が来ているのだということを、改めて思い知らされた。
震災前は、普通に風光明媚な観光地や農村だっただろうに……と思うと、胸に迫るものがあった。

30分ほどで、現場に到着。
この現場の仮設住宅は、数世帯分が4~5列あって1ブロックで、A~Fブロック分建てられていて、約150世帯分になるとのことだった。当然の事ながら、敷地は結構広い。
地面に杭を打ち込んだような基礎(こうした簡素な基礎であることが仮設住宅の定義らしい)部分にグレーの壁……と、既にニュースなどで見たような住宅がズラリと並んでいて、概ね建物の体を為していた。
この広大なスペースも、元は休耕地の畑で、地主さんから県だか国だかが無償で借りていて、予定されている仮設住宅設置期間の2年後に返却されることになっているのだそうだ。
この辺の経緯や成り立ちは、おおよそどこも同様なのだろうと思えた。

さて、到着から間もなくして始業時間となった。
朝礼が始まるとのことで、現場に来ている業者や職人が集まってきた。この日だけで、120人くらいの人員が集まって来ていた。
恐らくどこもがそうで、私も通勤中に電車の中から同様の光景を見たことがあったけれど、こうした現場には朝礼の前にラジオ体操から始まるのだ。
やはりここもそうであって、何年かぶりにラジオ体操第一をやった。
ラジオ体操が済むと、現場を仕切っている建設会社の偉い人(部長だったか?)から面白みのない話を聞かされ、各業者ごとの職長から人員やその日の作業内容の説明などがあり……と、正しく朝礼の光景。
朝礼など面白いものでないのは確かだが、久しぶりにこうしたカッチリとした規律みたいなものにはめ込まれてしまうと、高校の頃に戻ったような、軍隊に入ってしまったような、心地よい緊張感を覚えた。
最後に、列の前後にいる者同士で向き合い、ヘルメット、顔色、安全靴、安全帯(高所作業時に、建物や足場などにフックを掛けるロープの着いたベルト。落下防止の為だが、屋根に登ってもフックを掛けるようなところはないので、ほぼ無意味)を指差し確認し、朝礼が終わった。

M氏のところへ行って指示を仰ぐと、まずは「仮置きしてある残材を然るべき場所に運ぶ」という作業を仰せつかった。
「最初から力仕事だけど、一緒にやるから勘弁してね」と、M氏。M氏にしても本来は建築家なので、力仕事は馴染みがないはずだが、私はそれほど力仕事は嫌いじゃないので、M氏以上に張り切って見せた。
……が、敷地の端から端まで、サッシの余りや壁面のパネルの余りを担いで運ぶのは、案外骨が折れた。
加えて、まだ1桁台の午前中だというのに、強烈な日差しにもの凄い気温で、運動不足気味な立場からすれば、過激なウォーミングアップだった。
初日からへばって見せてはM氏にも心配をかけそうだったので、すれ違いざまに、
「いやあ、夏は力仕事しなきゃねえ。何だか男に戻った気がしますよ」
などと、虚勢を張って見せたりした。

と、そんな作業をしているうちに、グレーの壁面に紫色のテープが貼ってあるのに気付いた。
テープの傍には大体傷や凹みがあり、それが分かりやすいように貼ってあるテープのようだった。
一通り残材運びが終わった後に、
「所々貼ってある紫のテープは、パネルの傷や凹みがあるところですか?」と聞くと、
「そうそう、あれも直して欲しいって言われてるんだよねえ」とのことで、中間検査の時に、検査員が貼っていったものらしい。
「アレは、どこの業者さんが担当するんですか?」と更に聞くと、
「いや、決まってない。ひょっとして出来る?」とM氏。
大学卒業直後に私がやっていたアルバイトは造形屋であり、造形屋とは公園のベンチや滑り台から、義岩、義木などの造りの細かいものまで、ガラス繊維を挟み込んだ樹脂で様々なものを造形する業者であり、成形の過程で出来る傷や穴や凹みを修繕するのは、そこそこの経験があったのだ。
「出来ます。やります!」
自分のやるべき仕事が見付かった私は、残材運びのダメージも吹き飛ぶ思いで元気良く答えた。

この凹みが出来ているパネルは、3cmくらいの厚さの断熱材を薄い鉄板で挟んだつくりになっていて、タイ国から輸入したものだった。鉄板は住宅の壁材に塗料を吹き付けて出来たような微妙な凹凸があって、なおかつグレーで塗装してあり鉄骨に固定してしまえばそのまま仕上がってしまうように出来ている。仮設住宅の建材として用いるには、手間がかからない打ってつけのものであるはずだったのだが……。
歪みが生じているサッシも同様にタイから輸入したもので、貨物船で輸入してきたらしいのだが、本棚に本を立てて詰めるようにして積むはずのところを、パネルと同じように平積みにしてきたために歪みが生じたらしい。
何故わざわざタイから輸入してきたかというと、パネルについては国内で断熱材が調達できなかったからであり、サッシにしても必要な数を揃えられなかったからだそうだ。
要するに、他の仮設住宅建設のために国内の在庫は底をついており、輸入するしか方法が無かったのだそうだ。
阪神大震災の時にも、同じような物資不足で建材を輸入したような話は聞かなかった気がすることを考えると、今回の震災はやはり被害規模が桁違いであったのだろうと想像できる。
下野した政党は阪神大震災の時と比較して、与党の対応が遅いと短絡的に攻撃しているけれど、建材の調達も国内で賄えないほど桁違いの被害が出ているということであって、復旧の進展が遅いのはリーダーシップの問題だけでは無いのではないかと、私には思えた。

さておき、初日の午後の仕事は、壁面のパテ打ちと決まったため、私は左官屋さんが使うような手板の上で、せっせとパテに硬化剤を混ぜ、壁面に出来た凹みや傷にヘラでパテを充填し、綺麗にならして回ったのだった。

「何だ、あまり過酷な肉体労働という感じじゃないじゃないか」
……と思う方もいるかも知れないが、強烈な炎天下に、大きな石がゴロゴロしていて足場の悪い路面を、歩いているだけでも相当に体力を消耗する。
敷地が広大なら壁面も広大で、その一棟一棟をくまなくチェックし、凹みがあればパテを打っていく……そんなことを繰り返していると、やはり心身共に参ってくる。

そして、パテの硬化剤は、多く混ぜれば硬化が早くなるし、高温によっても硬化を早めるので、うっかり硬化剤を混ぜすぎると手板の上のパテはあっという間に硬化してしまい、使い物にならなくなってしまう。
私の使っていた資材置き場にあったパテは、ポリエステルパテと呼ばれる比較的硬化後のヒケ(体積が減ること)が少なく、強靱に仕上がるパテで、自動車の傷や凹みの修繕にも使われるものだが、強靱な分盛りすぎると削るのが大変だし、薄すぎると2度3度と盛らなくてはならず、手間がかかる。要するに、案外奥が深くて神経を使う作業なのだ。
仕上がったら仕上がったで、パテはパネルの色と違うため、ちょっと見には分からないくらいに色合わせをした塗料を塗ってようやく作業が終わるのであって、手間のかかる作業でもあるのだ。
私以外にそれをやる人間はいないことを考えると、本当に工期期間中に終えられるのかと思うと、不安がこみ上げてきた。

また、建物を直接的に組み上げる作業だとか、あちこちの仮設住宅でも問題になっていた雨漏りの対処をすべく防水加工をするだとかならば、被災者の今後の生活にダイレクトに貢献出来ている感じがするけれど、私のやっている壁面の修復は、検査でチェックされるから修復の必要が生じているだけで、住まう人の住み心地が向上するようなものではない。
「壁面に凹み一つ無いから住みやすそうだ」と思われることも無ければ「凹みの修復技術が優れているから安心して住める」と思われることもないような仕事なのだ。
結局、最終検査をパスしないことには、仮設住宅が完成したことにはならないので、必要な作業ではあるのだけれど、検査のための作業であって、やはり被災地のための貢献という実感は感じにくい。
「何か不毛だなあ」……という気持ちと戦いながら、私は黙々と作業を続けるのであった。

……………もっとつづく(今後はもう少し早くUPします 汗)