13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・其の10

「被災地巡り」から我々が戻ってきて間もなく、13時からだったか、やっぺし祭の開催時間に備え、公民館に滞在している全員が動き始めた。
とりあえず、我々男性陣10名程度は車に乗り込み、支援物資がストックしてあるコンテナが置いてある場所へ行き、トラックへ積み込み、イベントが催せるくらいの広い川原(名称・盛川)へ運び、また下ろしたのちに陳列する…という作業に取り組む流れとなっていた。
また、別班では、カレーや豚汁の炊き出しや、猛暑が予想されることもあってか、かき氷などの配布も行われる予定になっており、公民館から徒歩10分くらいである川原へ向かっていた。

車で数分のところにあるコンテナの置いてある空き地に到着すると、全員で支援物資が詰まった段ボール箱を次々と運び出し、トラックへセッセと積み込むリレーを編成した。
私も積極的にリレーに参加したのだが、この段ボールは中身によってそれなりの重量があり、総数100箱はあろうかという数を運び出すのは、仮設住宅での作業の疲れと長距離ライディングと睡眠不足の三拍子揃った私にはなかなかヘヴィであった。本当は大船渡にいる間くらいは肉体労働から解放され、似顔絵描きに専念できるのかも……と思っていたのだが。

この日の大船渡も、南相馬市同様に呪わしいような晴天で、トラックからの荷下ろしを始める頃には恐らく気温は30度を超えていただろう。
さっき積んだばかりのと同等の数を下ろすのかと思うと目眩がする思いだったが、さすがに半分がた荷下ろしが終わった後で、脳みその中から警告音が聞こえ始めたので、Y氏に「ちょっと休みます」と告げ、設営したばかりのテントの陰で休ませてもらったりした。まだまだ認めたくはないけれど、流石に不惑を過ぎた身体には無理があったようだ。
本当は陳列の作業をしにきていた女性たちの前で男らしいところを見せたかったのだけれど、ここで無理をして、似顔絵を描けないコンディションになってしまっては、何のためにここまで来たのだか分からない。

……と、再び作業に復帰しようかと思った頃に、余震が起きた。
正直言うと、私には揺れていたのかどうか良く分からない程度の地震だったのだが、どこから流れて来たのか、「津波警報が解除されるまで土手よりも高いところに避難してください」とアナウンスが聞こえてきた。
大船渡市はこの盛川に押し寄せた津波による氾濫のため、幾分余計に内陸の方も水害を受けたそうで、震災の教訓もあってか、全員が速やかに作業を中断し、ひとたび川原を上りきった川沿いの車道まで避難した。こうした警報を「またか」と真剣に受け止めなかったばかりに避難が遅れた被災者もあったことは、周知の事実だ。

やがて、無事警報が解除されたというアナウンスが流れ、再び川原へ降り立って作業を始めたのだが、時間が経つにつれ気温はどんどん上がっていき、全員が早くも疲れの色を見せ始めていたが、設営も炊き出しも陳列も、概ね予定していた時間に作業を追えることが出来たのだと思う。

さて、やっぺし祭は無事開催の運びとなり、いよいよ私にとっての本番の時間がやってきた……と書きたいところなのだが、ズバリ書いてしまうと、この日に私が描いた似顔絵はゼロ。
「は?」
「マジかよ」
と、読んでいる方の声が聞こえてくるようだが、この日は記録的と言って良いほどの炎天下。例えテントの日陰に陣取ったとしても、私流の似顔絵は15~20分の時間がかかる。この苦行を強いるような条件では、お客は誰も来ないだろうし、私自身が参ってしまいそうだったので、やっぺし祭開催中に似顔絵を描くのを断念し、翌日の避難所周りでの似顔絵描きに全力を注ぐことにしたのだ。
無理矢理決行したとしても、同じく描いた似顔絵ゼロという結果だっただろうという確信があったのだ。

……と、することがなくなった私は、休み休みではあれ、支援物資の陳列の手伝いをすることにした。大量に用意された物資は、いっぺんに並べず、小出しにするので、スペースが空けばまたそこに陳列する必要があるのだ。
そうして、恐らくは日本各地から送られてきた様々な物資を見ていると、確かに生活に必要なものが中心であったが、中には「送りさえすれば何でも良いと思ってたんじゃないか?」と思われるような、使い勝手の悪そうなものや、何に使えば良いか分からない道具や、使う気になれない結婚式の引き出物のようなものも何割か見受けられた。
東京を発つ前の支援物資に関する報道で、新品の衣料品は不足しがちなのに対し、古着は余りがちだと聞き、
「選り好みをしている場合か。贅沢を言わずに、もう少し善意を真摯に受け取ろうと考えるべきなのではないか」
と思ったこともあったのだが、こうして支援物資の現状を見てみると少し考え方が変わったところがあった。
「廃品を棄てる代わりに寄越してきた物」も「本当に何が必要なのかを慎重に選定して贈ってきた物」も一緒くたになっている支援物資だが、どちらにしても「今自分に出来ること」として、同等の手間を掛けて送られてきた物という点では紛れもなく支援物資であり、誠意の有無を第三者が区別することは出来ない。
そしてまた、震災直後の手元に使い勝手の悪そうな皿一つしかなければ、万能の食器として飲むにも食べるにも使うだろうけど、支援物資が充実してくれば、用途なりの物資を選びたくなる……と言うように被災した方々のニーズも移り変わっていくのは必然であり、それを我が儘や贅沢と、やはり第三者が指摘するわけにも行かない。
支援物資とは、ある種の単純な流通ではなく、難しくて微妙な問題を孕んでいるものなのだと、このとき私は実感した。

実際に物資を求めてやってきた年輩の女性から「ハンドタオルは大量に送られてきて助かるけれど、バスタオルがなかなか手に入らないので困っている」と、実感のこもった聞き、当事者の気持ちを酌み取って物資を送ることの難しさを痛感することもあった。
その一方で、しっかりとお化粧を施し、それなりにお出かけ用の服を着ているように見える女性などの姿も見られ、果たしてこの人は本当に支援が必要なのだろうか……といぶかしく思うこともあったが、震災から4カ月が経過していれば、避難所で生活していても身だしなみを整えることは出来るようになっているのかも知れないし、「避難所で生活している人のみ」などと支給する側が基準を設けているわけではないし、それをチェックしようとしても問題がある。
先ほどは「単純な流通ではなく」と書いたけれど、ボランティアとして携わる立場としては、やはりもう少しシンプルで大らかな考え方をしないと、やっていけないものなのかも知れないとも思えた。
政府も、義援金の配布などには、そうした大らかな考えで支給するようにした方が良かったのかも知れない……とも思った。

この日のことは、今回のUPで終わりにしたかったのだけれど、もう少し書くことがあるので、もう少しお付き合いをお願いしたい。

…………やはりもっと続く

気がつけば被災地・其の09

周囲の物音で目を覚ましたのは、7時過ぎくらいだっただろうか。
「お祭り」という初耳のキーワードが気になっていて、ひょっとしたら全く勘違いした場所に来てしまい、まさかY氏はここに居ないのではないかと思いつつ休眠に入った私だった。
2時間半くらいしか寝ていないにも関わらず、私はむっくりと起きあがり、公民館の建物の中から駐車場と兼用になっている庭へ出て、煙草を吸いながらY氏が現れるのを待っていた。部屋の方では女性も寝ているところだし、入っていってY氏を見付けて揺り起こして挨拶させるでもないだろうと思ったのだ。
建物の中から出てくる面々は、私より10歳前後年長の男女がチラホラ見受けられはしたものの、ほとんどが20~30代くらいの若い人たちで、美術系と思しき人たちも居たけれど、どうみてもそうは見えない人も居た。やはり美術系のイベントというのは私の早とちりだったのだろうか。
……などと、疲労のせいかまだボンヤリとした意識の中で考えていると、まだ少し眠そうな顔をしたY氏が庭に姿を現した。因みにY氏も私の一回り下で、大多数の年齢層であった。
「いやあ、如瓶さん(←実際私は、前出のバーでこう呼ばれている)、よく来ましたね。何かすっかり男前になっているじゃないですか」
「タハハ……まあ、5kgくらい痩せて、日焼けした上に髭を生やしましたからね」
今まで具体的に書かなかったけれど、仮設住宅の現場での炎天下の激務のせいで、あれほどガッチリと食事を摂っていたにもかかわらず体重は減り、額以外の顔と手の甲だけ日焼けをし、髭も剃らずにいたので、ここ一週間くらいでガラリと風貌が変わっていたのだ。

早速私は、これから参加するイベントの詳細と、何をしたら良いか、似顔絵を描くスペースは確保できるのか……などを、Y氏に尋ねた。
Y氏の話によると、今日催行されるのは「やっぺし祭り」というもので、東日本大震災後に地元の復興のためのイベントに加え、炊き出しや支援物資の配布などを兼ねて行い、被災した人に多角的に力になろうとするものだったようだ。「やっぺし」とは岩手県の方言で「よしやろう!」という意味なのだそうだ。
1カ月前が第1回で、その時はワークショップなどの美術系のイベントも含まれていたそうなのだが、今回はスポーツイベントが中心になるとのことだった。バーで「ワークショップをやった」みたいな話を聞いて、美術系のイベントと決めつけていたのかも知れない。
「とりあえず手伝って貰えると嬉しいのは、支援物資の積み下ろし・陳列と、会場のテントとかの設営なんですけど、大丈夫なんですか?」と、Y氏はあまり寝ていない私を気遣ったが、
「せっかくスペースを借りて似顔絵を描かせて貰えるんですから、可能な限りお手伝いしますよ」と言った。
似顔絵のスペースも、公民館から折り畳み椅子を2脚借りる事が出来たし、どうにか支障なく確保できそうだった。

東京から大船渡市まで7人乗りの車で来ていたY氏は、
「準備を始めるまでに時間があるし、何人か連れて被災地を見に行くんですけど、一緒に来ますか?」と、私に言った。
大船渡市は、最も多く死傷者を出した石巻市の次くらいに被害が大きかった事くらいは知っていたものの、ここへ来るまでに通ってきた国道沿いにそれらしい光景を見なかったし、それを遠慮して寝させてもらおうものなら余計にしんどくなりそうだったので、同行することにした。
「紹介します。こちらが主催者のIさんです」車に乗り込もうとした私に、Y氏が言う。
I女史は大船渡市に実家のある女性で、私より10歳くらい年長か。以前は都内のTV局で働いていたキャリアウーマンだったそうだが、現在は現代美術を中心にした美術品を、購入することによって作家を育て、マーケットを拡大しようという運動をしているという人であった。
そういう活動をしようというだけあってか、よく日焼けしていることも手伝って、一瞥してギラギラしたパワフルさを感じさせる女性であった。
現在は東京在住と聞いた気がするが、震災時の津波で実家は流されてしまったらしい。彼女もやはり被災者だったのだ。

ざっとした挨拶をしたのち、我々はY氏の車に乗り込み、I女史の案内で被災地へ赴いた。

何事もなかったかのような市街地……とはいえ、地方にありがちなこぢんまりとしたものではあったが、数分も海側へ進んでいくと、やがて光景は大きく様相を変え、うっかりすると居眠りしそうだった私もいっぺんに目が覚めた。
電車が通らないため錆び付いた線路。
その先には駅舎ごと無くなってしまった駅。
更に進むと、TVでも何度も見た、基礎だけが残っているような家屋や店舗。
形が残っている建物にしても、敷地内には未だ残る瓦礫が無造作に散乱していて、建っているのが不思議に見えたりもした。
大きな建物も点在していて、被災前はそれなりに開けた港町だったことは良く分かったが、活動している人が居るとすれば瓦礫の撤去をしている人だけであって、閑散としているというより荒涼としている感じにすら見えた。それらは何か、パニック映画の終盤でしか見られないような非現実的な光景だった。
道路の瓦礫こそすっかり片づいてはいたものの、今もなお被災した人たちの恐怖や絶叫が漂っているような、その場にいるだけで不安を駆り立てられるような凄惨さがあった。
一番驚いたのは、4階建てくらいのショッピングモールの屋上にあった、三分の一くらい頭を覗かせて、今にも落ちてきそうな乗用車であった。屋上が駐車場になっていたのだとしたら、あんな高さのところにまで波が押し寄せたという事なのだろうか。
あまりにも晴れた朝の強い日差しの降り注ぐ震災後の港町は、未だ恐怖や悲憤、あるいは狂気をたたえた空気で満たされているようだった。

車に乗っていた一同は、例外なく発すべき言葉を無くしていたが、案内をしてくれるI女史は、
「踏切を一時停止しなくて良いのは今だけだからね」
「この辺は何も残っていないけど、出掛けるならちょっとオシャレして行くような感じの通りだったんだけどね」
「あ、あそこが私の実家があったところーー」
などと、意外なまでにあっけらかんと説明してくれていた。震災から4カ月が経とうとしている頃だったからか、精神的にタフな人だからなのか、私には良く分からなかった。いずれにせよ、しっかりと現実を受け止め、今何をしなくてはならないかを冷静に考えられるからこそ、「やっぺし祭り」を主催できたのだろう。

……と、非現実的な現実を一通り見てきた我々は、言葉に出来ない衝撃の余韻を車中に漂わせながら「やっぺし祭り」の準備をすべく、ひとたび公民館へ戻って行ったのであった。

…………まだまだ続く