13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

東日本大震災から10年

皆様、お早う御座います。館長&代表の如瓶です。

さて、あろうことか、或いはInstagramへの投稿に夢中になっていたりしたためか、2020年のこの時期に、東日本大震災についてブログで触れることは無かったようで、震災が起こった2011年に現地へ赴き、肉眼で現地の惨状を見てきた立場としては大きく反省したいところだ。

TVなど見ていても、10年という節目にあたって、どの局も数日に渡る特集を組むなどして、東日本大震災の記憶を呼び覚まそうとしているようであり、それはそれで悪いことではないと思うが、現地に赴いて私が目の当たりにした惨状のことを思うと、ああした現実にこそ「惨状」という言葉が使われるべきであり、平時の少々のことに対して「惨状」という表現を軽々に使うことに無責任さを感じるほどの、筆舌に尽くしがたい様相だったことを改めて思い出し、その厳然たる現実については、日本国民として認識を薄れされてはならないと改めて思うところである。

昨今のコロナ禍についての報道を見ていて、「有事にこそ国家の資質が問われる」といったようなコメントを耳にするが、同じ有事の政府の対応を考えると、10年前も変わらず、どの政権だったかに関わらず、日本の有事に対する政策の稚拙さはそれほど変わっておらず、嘆かわしいことこの上ない。 政府や政権のせいにしているようだが、意識の薄さが投票率に現れている国政に対する日本国民の意識の薄弱さが……などと続けたいところだが、昨年ブログで何も触れなかった私が何か言えた立場ではないだろう。

いずれにせよ、震災が起こって4カ月ほど経過した頃に、たまたま3月いっぱいで失職することになっていた私は、何かの役に立ちたいと思い、避難所などでのアトラクションとして似顔絵描きをすることを主たる目的として、被災地へ赴いた。
何故3月に失職し、何故4カ月後に現地へ行ったのかとか、失意のどん底にいらしたであろう被災者の方々をつかまえて、呑気に似顔絵を描こうとしたことについてどんな気持ちを持っていたか……などについて、険しかった経緯や懊悩、また奮闘ぶりなどについて長々と、mixiの日記を利用して記録していたので、これを機に改めて紹介したいと思う次第である。

2年前にも、ほぼ同じ形でmixiで書いた日記の転載を紹介していて、また同じことをするわけだし、被災地へ赴いて絵描きなりに貢献しようとしてきたことについて書いたことを何度も紹介するのは、いい人アピールをするにしても低劣な方だと思うし、むしろそれも改めて紹介する目的であることも否定できないのだけれど、こうしてブログに残すことにより、記憶の風化を防ぎたいと思うのが、最たる動機であることもまた間違いない。 私のドタバタ似顔絵紀行はさておき、当時見た「惨状」については、振り返るに足りる記録となっていると思うので、興味を持たれる方は、ぜひご一読願います。

と、そんなわけで、以下がリンクであります。

気がつけば被災地・其の01

気がつけば被災地・其の02

気がつけば被災地・其の03

気がつけば被災地・其の04

気がつけば被災地・其の05

気がつけば被災地・其の06

気がつけば被災地・其の07

気がつけば被災地・其の08

気がつけば被災地・其の09

気がつけば被災地・其の10

気がつけば被災地・其の11

気がつけば被災地・其の12

気がつけば被災地・其の13

気がつけば被災地・最終回

以上、今回は昨年の反省と、コロナ禍の影響もあって被災地へも他の何もかも、何も出来ない無力感にも苛まれていることも含めて、黙っていられませんでした。

少女像とか御真影の動画とか

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

さて、前回のブログであいちトリエンナーレのことについて書いたけれど、纏めるのに苦労したり、さぐりさぐり書いていたりで、主部述部の関係もおかしいところがあるなど、ひどい文章になっていて、自分の文章を読み返すのが大好きな私でさえ、半分くらいで読みたくなくなるほどだった。
書こうとする内容についての調べ物と並行して書いたりしていて、時間ばかりかかり、限界に近い状況でUPを急いだために起こったこととはいえ、真面目に読もうとした方には心よりお詫びしておきたい。

さておき、今となっても賛否や責任の所在などについて、意見が乱れ飛んでいる感じだが、撤去された作品についての良し悪しに対して意見を聴くことはやはり少ないので、ファインアートとコマーシャルアートの両方に携わる表現者である私が、主だった二つの作品について私見を書いてみようではないか。
因みに、私は油絵科卒であり、立体物などの彫刻や、映像作品などについて見識が深いわけではないことは、予めお断りしておこう。

まず、少女像から。
これもあまり触れられないので、作者のことを調べてみると、金運成(夫)と金龧炅(妻)という彫刻家の共作によるもので、型を作って量産している作品のようだ。

一部で、「型を作って量産しているあたりも、芸術作品とは言えないと思う」という意見も聞いたが、20世紀初頭に興った、作家がある意図をもって芸術作品だと言ってしまえば、それは作品であるとされるコンセプチュアル・アートというジャンルの存在を考えると、芸術作品であることを否定するのは難しいと私は考える。もう100年以上も前から、芸術作品は一品物でなくても、自分で作ったものでなくても良いとされているのだ。

ただし、これは量産品
一品物の彫刻なら、作家は全体的な造形のみならず、表面の質感や細部の造り込みなどに全力を注ぐことになるため、少なくともかけた時間や労力なりに見応えのあるものになるけれど、量産を前提として作るとなると、やはりどうしてもつるんとした印象のものとなり、像の迫力や微妙なニュアンスなどは失われていくものだ。
私が初めて、ニュース映像などでこの像を見たときに、作家の意図がビシビシ伝わってくるような作品ではないことはすぐに感じ取ったし、あちこちに同じようなものが次々と設置されているのを知ってからも、量産品なのではないかということは容易に想像できた。
ズバリ言ってしまえば、微妙にポーズが違っても、彩色が施されていても、ちょっとした添え物でバリエーションを付けようとも、彫刻作品としては真新しさも迫力もない、凡庸な作品であることは間違いないと思う。

もともと作者夫妻は、大学で彫刻を学んでいたようで、そういう経歴を持った人が作ったものであることは感じ取れるけれど、反米運動などに積極的に参加していた活動家の一面ももっていて、しかも慰安婦問題で日本が謝罪しない限り像を作り続けると言っているそうだが、慰安婦問題の真偽も確認せずに、自分らの作品が反日運動に使われることに何の抵抗もないところも含めて、表現者として賛同できない

芸術作品や表現物は、作者が何かしらの意図を込めたものであり、その意図が誤解なく鑑賞者に伝われば、成功したと言えると思うけれど、慰安婦問題にまつわる反日運動というストーリーだかレッテルだかを付与されたお陰で、凡庸な銅像ながら日本人をいや〜な気持ちにさせ続けている点においては、表現としてかろうじて成功していると言ってよいだろう。

次に、御真影の動画について。
問題の動画「焼かれるべき絵」は、戦争と女性をテーマにした作品を発表し続ける現代美術の作家、嶋田美子氏の作品であるらしい。
種々のネットの記事を拾っていくと、「焼かれるべき絵」に込められた意図は、戦時中に起こった「検閲」を問題にしていて、天皇制や天皇の戦争責任など、そもそも反日的な意図の作品ではないとされているそうだ。幾つか記事を読んだが、本来の意図についてここでする解説の助けとなるような腑に落ちる解説は見つからなかった。

ただし、そうした制作意図を知らずに見たら、「不自由展」で紹介されなくても、少女像と同じ空間になかったとしても、反日をテーマにしたもと思われても仕方がないと思う。
表現したいことが鑑賞者に伝わりにくく、誤解されるようであれば、それは作者の表現力やセンスの問題だ。表現物は、様々な形や事情で作者の手元を離れていくし、作者の手元にあったとしても展示中、常に作品の傍らにいて、「誤解されないように説明しますが……」と、鑑賞者一人ひとりに注釈をつけ続けるわけにもいかない。
そんなことをしなくて良いように、表現者は表現力を磨き、表現物だけで意図を伝えきれるようにする必要があるのだ。
そういう意味で、作者はもう少し表現の仕方に対して慎重であるべきだったのだと思うし、この動画は表現として成功したとは言えないと思う。
動画を見てみれば、映像美や意外性のある展開を表現の意図としていないのは明確だし、写真に写っているのが誰かが分かり、それを燃やして踏みつけるとなれば、ダイレクトな反日思想がテーマなのだと思うし、正しく鑑賞するために調査や研究を強いるような作品は、それだけで表現力不足だと思う。
私が映像作品については専門外であることと、現代美術に関しても詳しいとは言えないことはもう一度繰り返しておくけれど、長いこと様々な表現に触れてきて、様々な表現に心を動かされて来たことはあるわけであって、少なくともこの動画に、それがなかったことははっきり書いておきたい。

いろいろと思い切ったことを書いてしまったが、表現物とは個人的な好き嫌いでの評価に終止するもの。国際情勢やストーリーなどを知らずに、これらの作品の前を通りかかったとしても、私が立ち止まることはなかったと思う。

私が現代美術前衛芸術などと呼ばれるものに関心を持たないまま表現を続けてきたのは、理屈とか思想とかの予備知識がないと成り立たない傾向が強いと思えるからだ。表現物に対峙するだけで、鑑賞者に制作意図を伝えようとするための努力を怠っているように見えるからだ。
一方、ルネサンスの宗教画なども思想を盛り込んだ絵画だと言えるかも知れないが、その表現に注ぎ込まれた制作上の労力や表現に対する飽くなき研究の努力が結実しているからこそ、実家が浄土真宗の私でも胸を打たれるのだ。
そうした労力や努力が、あの作品群にあっただろうか。

前回のブログにも書いたけれど、政治や思想のことを芸術という枠組みの力を借りて主張しようとするのは前時代的だと思えるし、単純に好きじゃないのは、表現物が自分の手を離れた後に、どんなオプションを付けられて制作意図を歪められてしまうか分かったものではないし、あらぬ影響を持ってしまった場合、責任を取れる保証がないからだ。
私が知る限り、反日的なニュアンスが感じられる作品はもう1点あったようだけれど、その作品も含めて、「不自由」と括られるより、「無責任」とされるべき作品群だったのではないだろうか。
また、政治とか思想とかを抜きにすれば、優れた芸術として鑑賞できるものであれば、なおさら展示を中止しなくても良かっただろうし、理屈前提の表現物であったからこそ、心地よく鑑賞できるものになり得なかったのだと思う。

以上、思ったことや知っていることだけで書けないブログはしんどいなあと思いつつ、黙っていられませんでした。

あいちトリエンナーレのこと

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

やはり、触れずに済ませるわけにはいかないと思うので、あいちトリエンナーレのことについて書いておこう。

あらかた意見は出尽くしているような感じであって、全体的にも部分的にも賛否両方を目にするけれど、一表現者である私としては、政治だの思想だのを自分の表現の中に持ち込まずに活動を続けてきたので、自分とセンスが合わない表現者や、自分が参加することのない芸術祭で起こったトラブルだなあと、かなり冷淡な見方をしていた。

ただ、そんな私が言えるのは、憲法で保障されているほど表現者はそれほど自由な存在ではなく、むしろ様々な制約の中からいかに自由に立ち回れるかを考えることによって自分のスタイルやら表現手法やらテーマやらが決まっていき、そこで表現を完成させるということが表現の自由を獲得することなのではないかということだ。

憲法で謳われる表現の自由は、「国とか政治とかの都合が悪いからという理由で表現を制約するための検閲はしないよ」ということだというのが私の解釈だが、そこから先は、自分の表現が機能し成立するよう努力したり、表現に対して起こった影響に責任を持ったりすべきだと思うし、ほとんどの表現者は独力で努力し、責任をとっていかなくてはならない。
だから、表現を成立させることが表現者の最終的な目標なのであれば、自分の努力や責任の範疇を超えるモチーフやテーマを選ぶべきではないのが表現者の在り方であり、良識でもあると思う。

センスが合わないからといって、それを否定しようとは思っていないし、センスの合わない人たちから私の表現を批判する言われもない。所詮、表現ってヤツは、表現者と観賞者の好き好きの中で完結するほうが、平和に機能していくものだと思っているし、風刺くらいならまだしも、政治活動などと表現活動……特に美術は分けて考えたほうが良いと思う。メディアが貧弱だった頃とは違い、政治活動は芸術の枠組みに嵌め込まなくても、誰もができる時代になっているのだから。

中止を決定した点において、今回の芸術監督は、取れる責任の身の程を見誤ったことは事実だと思うが、もともと表現者であった立場なのであれば、テロ予告に対しては警備の強化などで対策するなど、芸術監督の責任をもって要請するなどして展示は継続すべきだったと思う。
主催側の行政にしても、開催後に中止を決めるくらいなら、なぜもっと事前に内容の検証やどんな影響があるかについて想定しなかったのだろうかと思うところはあるけれど、惨事が起こってからでは遅いという立場もわかるし、中止は鑑賞者の安全を確保するための対処であって、憲法21条を引き合いに出してそれを批判するのは滑稽だと思う。

今回の芸術監督にしても、昭和天皇の写真の動画について「二代目前だから問題は小さい」といった意味のことを発言している動画を見る限り、全体的に企画に対する慎重さも真剣味もたりかなったのではないかと思われてもしょうがないだろう。もともと物書きという表現者だったはずの人だが、昔からそうだったのだろうか。

いつも通りくだくだしく書いてきたけれど、今回最も表現の自由を損なう行いをしたのは、面白半分に見えるテロ予告をした者たちであって、これは立派に刑事罰に値する強迫行為。
公的資金が使われた展示だったことやら、行政の反応やら、芸術監督の動画の暴露やらで、あまりスポットが当たらないけれど、元凶だった強迫行為についての対処を、主催側も行政も警察もマスコミも諦めているのだろうか。

……と、ここまで書いたのが8日の早朝。主催側の被害届をもってやっと警察も動き出しそうだけれど、これだけ騒がれた脅迫事件について、被害届が出ないと捜査しないのが警察なんだろうか。このあたりは、各方面に対して、吉本興業の問題とも同質の失望を感じる。

それにしても、こんな経緯でもなければ、注目を浴びないのが日本で開催される芸術祭であり、公的資金の話でも出てこないと表現物に対して注目しないのが日本国民であることを露わにしたのは、トリエンナーレの功績だったと言えるだろうか。

以上、本当は掲載した分の倍くらいの文章を書いたけど、どうにもまとまらなかったのだけれど、どうにか形にしたので黙っていられませんでした。