13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

目立とう精神 on SNS

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

さて、昨今はスマートフォンの普及により、SNSも普及し、誰しもが画像や映像付きの表現に挑むことが可能になった。
専門的な機械を使わなくても、かなり質の高い画像や映像が撮影できるし、報道などでも百の目撃者の証言より饒舌に、事件や事故の現場を物語ったりもしているし、ひょっとしたら犯罪の抑止にも繋がっているかも知れない。

ただその一方で、SNSを利用して、奇行に走る様や、非常識な振る舞いを画像や映像に収めて公開している輩がいて、それがまた報道だのワイドショーなどを賑わせていたりもする。

今回のブログのタイトルに、「目立とう精神」などと、前々時代的な言葉を使ったが、これを、

「注目を浴びたいあまりに愚行に走ることを喜びとする人や価値観を、腐す意図を込めて評する言葉」

と、私は認識している。
その認識に間違いがないのであれば、SNSの時代になっても、この前々時代的な言葉を使って形容すべき人々がいることに、失笑してしまうわけだ。
……と、ここで締めくくりに入るようでは、TVのコメンテーターの発言に同調しているに過ぎない。そもそも私のブログとしては文字数不足だ。

続けて何を言いたいかというと、「表現」または「表現者」ということについて触れておきたいのである。

「目立とう精神」ってヤツは、実は表現者にとって不可欠な気質であり、素質と言っても良いものだと私は考えているのだ。
「表現」とは、自分の考え方や感性を、誰かに伝え共感を得たいという承認欲求に近い衝動が原動力になっていると思う。これも私の認識だけれど、考え方や感性を、より良く、よりダイレクトに伝える方法を模索し、技法や技術を習得し研鑽するのが「表現者」の在り方だと思っている。
SNS上の「目立とう精神」に取り憑かれた人たちが「表現者」を目指していたとは思わないが、奇行や愚行を誰かに見てもらい、何かを伝えたいと思っていたとしたら、それが純然たる悪ふざけであったとしても、一種の「表現」であり、「表現者」を自称している自分も、世間から同じように見られているのかも知れない……と、失笑の傍ら不安が過るのだ。

ただし、私は私なりに「目立とう精神に取り憑かれた人たち」と「表現者」との明確な区別がある。
一つは、先にも書いたように「伝えたいという目的にために表現方法を習得し、研鑽してきた人」なのかどうかということ。
もう一つは、表現することが目的で目立つ結果となったのか、あるいは単純に目立つことが目的で表現したのかという違いだ。当然、前者が「表現者」であって、後者が「目立とう精神」ということであり、この後者では殆どの場合共感を得られることはなく、買うのは顰蹙ばかりなり……という結果となりがちであり、その結果どうなるかを想定できるかどうかも表現者の資格みたいなものだと思う。

ところが、人が他者に対して何かの働きかけをしたときに、何かしらの反応があったりすると、発信者にとってそれは快感に繋がっていく傾向がある。この傾向は、「目立とう精神」であっても「表現」であっても、繰り返されるたびにエスカレートしていくところがあるのが困ったところだ。

私がmixiを初めて間もない頃、西武新宿線の急行が止まらない駅で敢えて下車し、その駅周辺がどんな様子なのかをレポートする日記を書いたことがある。
当時から私の文章は長めだったので、あまりコメントを貰えなかったが、全4回に分けて書いたこの日記は、幾つかコメントを頂けるほど、反響があった。つまり評価の声が寄せられたのだ。
我ながら面白い企画だと思ったし、紀行文を書くのも好きだったので、西武新宿線の各駅停車しか止まらない駅の全てをレポートしようかと思ったのだが、初回の沼袋駅、二回目の都立家政駅で、想像以上の件数のコメントを頂いたものの、それ以上書くのをやめてしまった。
何故か。
初回の評判に気を良くした私は、もっと面白くしようと思いながら、初回にはしなかったような行動をとってしまったのだ。
それは、決して奇行や愚行ではなかったと思うけれど、表現と目的が入れ替わり始めている事に気づき、これ以上を書くのは危険だ……と、気持ちにブレーキがかかってしまったのだ。自分で評するのは恥ずかしいけれど、それは私がやはり「表現者」だったからかかったブレーキなのであって、そうした自覚がなければ、私もSNS上の「目立とう精神」野郎になってしまっていただろう。

ともあれ、現代の「目立とう精神」に取り憑かれた人たちに、悪ふざけをUPするにしても、それなりにどう撮るかなど考えただろうし、反響があった分、伝えるべきことを伝えられる表現力があったということなのだから、どうせならもう少し習得やら研鑽やらして、「表現者」を目指したらどうですか? ……と言っておきたい。
奇行や愚行ではなくても、流行しているものにホイホイ迎合した写真をUPしたり、画像の中だけのこととはいえ、親からもらった顔を誰もが使っているようなツールでいじってUPするのも、私にはSNS上の「目立とう精神」に見えていることも付記しておきたい。

せっかくmixiからコピーしてきたので紹介すると、比較的表現としてまっとうなレポートである沼袋駅周辺のレポートはこちらから。
各駅停車駅探訪1・沼袋編 1/4

長々しい割に過去の日記への誘導が目的のようになってしまったけれど、黙っていられませんでした。

大捜査線

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

前回のブログで、少々ケチを付けるような内容を書いてしまったので、早めに責任をとっておこう。

これも前回書いたとおり、「ゆうひが丘……」の放映が終わった後に「大捜査線」なるドラマが始まった。
そういえば、織田裕二(以降敬称略します)の主演ドラマでも「踊る」付きだが似たタイトルのドラマがあったが、今回書こうとしているのは杉良太郎主演の方。
放映年も1980年、つまり私が中学生の頃で、時代劇のイメージが強かった杉良太郎が、現代の刑事役に挑んだ異色のドラマであった。
当時の私にも杉氏に対してうっすらと認識はあり、髷のついたカツラなしの杉氏を意外に思ったのを覚えている。
放映前の番組CMの映像でも、結構激しいカーアクションがあり、杉氏扮する加納明の愛銃はコルト・パイソン357マグナム・6インチと、大ぶりで個性的なヤツを使っていたりとか、当時の私からすれば内容的にもキャスティング的にもなかなか興味深く思えていたのだ。

で、今週の火曜日の第一回の放送日。
私は、中学生の頃の気持ちに戻りつつも、その後いくつものドラマや映画を見てきた立場としても、興味津々に番組を観てみた。
オープニングの曲も、今聴けば時代がかっているというか、任侠モノの映画のテーマ曲のようなのを気にしなければ、なかなかインパクトの強い仕上がりだし、加納明がどんな立場でどんな人物なのか、説明的に描写せず、台詞を追っていくごとに次第に分かってくるような凝った作りになっていて、なかなか引き込まれる。
劇中のカーアクションにしても、車内からフロントガラス越しの光景を見せてスピード感を出すなどの演出にも目を開かされたし、とにかく主演の杉氏がカッコよく見えるように尽力したドラマであることはよく伝わってきた。
時代劇スターにしておくには勿体ないほど長い脚を開き、両手で体の中心にパイソンを構える射撃姿勢も個性的だし、何よりスリーピースのスーツがよく似合う。
現代劇ということもあって、語り口も抑えめだったりして、見事に時代劇との使い分けはなされているあたりも、流石と言ってよいのではないだろうか。(とるべき責任・その1)

また、「ゆうひが丘……」にも出演していた神田正輝も、同じく準主役級で出演していて、そこから2年が経過して経験を重ねてきたためか、台詞回しにも上達がみられ、少し安心して観られるようにもなっていた。(とるべき責任・その2)

ヒロインに当たる本阿弥周子は、よく知らない女優さんだったので調べてみたところ、時代劇などに多く出演していて、どちらかというと悪女役が多いとの記載を見つけたが、なかなかの美人で、加納明をサポートしつつ寄り添っている感じも、美人秘書のようで好印象。

だが!
スポッと取り外せるのではないかと思えるような杉氏のヘアスタイルとか、パイソンを撃った瞬間、自分が撃ったのにビックリしているかのようにパッチリと目を閉じてしまうあたりとか、独特な射撃姿勢にしても、長い脚が災いして極端なガニ股に見えたりとか、杉氏をカッコよく描こうとすればするほど、それらのイマイチな要素が浮き立ってきて、強烈な違和感を覚える結果となっていた。
昔、加藤茶が「現代劇に出演しているのにどうしても見得を切るクセが抜けない歌舞伎役者」を演じたものとか、(恐らく影響を受けたのだろうけれど)内村光良が「現代劇に出演しているのに時代劇の喋り方が治らない時代劇役者」を演じたりとか、どうにもそういうコントを彷彿させて、カッコよさやシリアスさの邪魔をしている感が否めなかった。
トドメはエンディングテーマ。べらんめえ調の語りから入り、いかにも演歌チックな唱法で展開し、杉氏自身が作詞したこの曲も、パイソンを木製の鞘に収まった日本刀に持ち替えた方がしっくり来る仕上がりだ。

更に細かいことを書くと、至近距離からショットガンで撃たれて散弾を受けたはずのに、血が吹き出すのが一箇所だけだったりとか、幾ら357マグナムだからといって、加納明があの射撃姿勢で車のエンジンあたりをズドンと撃ったからといって、すぐにエンジンが止まってしまうほど日本車はヤワじゃないと思うし、その道の第一人者であるトビー門口氏が、火器周りの監修をしていたはずなのに、不自然な描写もチラホラ。
ウィキペディアを参照したところ、台詞にも警察の専門用語が多用され、リアリティを追求しようとしていたらしいのだが、火器周りの不自然は、中学の頃の私でも気が付いだのではないかと思うほど、残念なものを感じた。

とまあ、そんな感じで、制作側も失敗を認めたという噂の刑事ドラマの一回目を観終えたのだけれど、時代劇スターの起用や斬新な演出やシナリオなど、多くの個性や能力が結集して挑んだドラマだったのだと思うのだが、残念ながらそれぞれの要素が噛み砕かれて消化されることなく制作が進んでしまったのではないかと推測され、何とも惜しまれるなあという印象だった。

しかしながら、劇中の杉氏も作品自体も、現代風に言うならば「ダサかっこいい」と評して良いのではないだろうかという気もしている。
放映当時に「ダサかっこいい」という言葉は存在せず、つまり「カッコいい」とか「可愛い」とか「きれい」とか「笑える」とか、単一的な価値観が併存しているのが普通とされていたのが当時のドラマの在り方で、世の中もそういうトラディショナルな価値観でしか作品を評価できなかったから失敗した……つまり視聴率が上がらなかったと考えられる。
「ダサかっこいい」とか「キモ可愛い」とかみたいな、相反するものが同居しているものについて評する言葉は、その言葉が誕生したことでカテゴライズされ、存在価値を持つようになっていったと思う。
つまり、「ダサかっこいい」このドラマは、今観ると結構楽しめるのではないかと、初回放送を見終えて確信した次第である。(とるべき責任・その3)

そうした確信を裏付けるように、放映が終わった第三話まで興味津々に視聴したし、更に来週月曜の第四話が今から待ち遠しい。
色んな角度から楽しめそうな「大捜査線」。今後再放送されるのがいつになるか分からないことだし、是非皆様もご覧あれ。

「ダサかっこいい」と、賛辞のつもりで書いては来たけれど、杉氏からすればやはり不本意かも知れないなあと思いながらも、(運転時に)違和感を感じるという理由から運転免許を返納した英断は、素直に惚れ惚れするようなカッコよさだと思ったことも付記しておこう。(とるべき責任・その4)

以上、これはテレビ番組評ブログかよと思いつつも、取るべき責任を果たしてホッとしたいばかりに、黙っていられませんでした。

ゆうひが丘の総理大臣

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

今日最終回だったのだが、「ゆうひが丘の総理大臣」というドラマがTVKで再放送されていた。
厳密に言うと、同じTV局で二度目の放送となった場合が再放送であり、TVK的には初放送であるためか、番組表に[再]の記載はなく、便宜上再放送と書いたが、本当は別な呼び方があるのかもしれない。

で、初回の放送は1978年(日テレ)だったそうで、私が小学五年の頃。20時からの放送だったようで、番組のCMで主題曲を何度も聞いた記憶があるため、地元でも放映されていたと思うのだが、1話も観たことがなかった。放映時間的にも観ていておかしくなかったのだが、理由は思い出せない。

ともあれ、若い頃の中村雅俊(以下全て敬称は略します)のドラマは好きだったし、観てみようと思ったのだが、気が付いたのは10話目だったのが少し残念だった。
原作であるコミックも読んだことは無かったけれど、昭和の学園ドタバタコメディドラマなのだろうと思うと、観ていてしんどくなるかと思いつつも、観始めると週の前半に連日放映してくれることも手伝って、ちょっとした楽しみになってしまった。
「ご存じない方のために……」というにも大雑把すぎる内容の説明をすると、中村雅俊演じる(以下敬称略します)高校教師が舞台となる「ゆうひが丘高校」に赴任したところからドラマが始まり、教師と生徒、教師と教師、下宿先の住人などとの間で、青春やら友情やら人間関係やら、あるいは教育のあり方などについて、笑いあり涙ありで描かれる一話完結型のドラマであった。

観てみると、やはり昭和の学園ドタバタコメディ。中村雅俊のベタな三枚目ぶりとか、神田正輝の台詞回しの雑さとか、生徒たちの大きい芝居とか、令和のオッサンの目から見ると、トホホな感じも見受けられたが、印象に残っているそれ以降のドラマ群から比べれば新鮮にも感じられたし、昭和の頃はこうしたわかり易さがドラマには必要だったのかもしれないとも思えた。
まあ、一番目を見張ったのは職員室の顔ぶれで、教師役をやっている役者さんたちだけで、何本もドラマが撮れたのではないかと思うほどだが、令和の今からすればそう見えるだけで、当時は標準的なキャスティング(というか役者に払うギャラの予算)だったのかも知れないが、制作費不足に苦しむ今のテレビのことを思うと、やはり贅沢なキャスティングだったように思う。
そもそもテレビがメディアの主役だった時代のゴールデン枠のドラマであり、1年通して放映する予定だったわけだから、キャスティングも中途半端に済ませるわけには行かなかったのだろうけれど。

ドラマの造り的にも、エンディングテーマが流れ始めると、その回のストーリーを総括するようなシーンをセリフ無しで構成して流していたりしているあたりにも、昨今のドラマにはない贅沢さが感じられた。

ドラマの冒頭には、「一部不適切な表現も含まれますが制作当時のオリジナリティを尊重し……」と、今の時代に放映するからこそ必要となる字幕が表示されるのだが、それもその通り。
今ならセクハラだと言われそうな言葉遣いとか、プライベートな事情が元で教師同士で殴り合ったりとか、毎回のように生徒たちが仕掛けた落とし穴に教師である中村雅俊が落ちた後に、頭上のバケツから水が降り注ぐようなイタズラをするシーンとか、感極まった教師が生徒の頬を叩いたりとか、平成のモラルに馴染んでしまった立場からすると、少なからず愕然とするシーンが多数見受けられたのだが、そうしたシーンを今観てみると、どこか人間が人間らしく描かれていて、少しホッとするような気持ちになったのも事実であった。
いい時代だったんだな……と、ありきたりな感想を持ちつつも、その一方で「不適切な表現」が描かれなくなった昨今のドラマからは、人間臭さすら削除されているのだろうか……とも思えた。

40年ほど前のドラマだけあって、出演者の皆が若く、チラホラと他界された役者さんもいたりして、そのあたりも今観る昭和のドラマの醍醐味の1つではあるけれど、当時あまり魅力を感じなかった岡田奈々が、目映いほどの可愛子ちゃんだったことが、このドラマを見た中での一番の収穫だった……かな?

「ゆうひが丘」が最終回だった今日、明日からは、主役も制作陣も、自ら失敗を認めているという話を聞いたことがある、杉良太郎主演の刑事ドラマ「大捜査線」が始まる。う〜〜む、観始めたらそれなりに次回が気になるのかなあ。

以上、あまり昔は良かった的なことは書きたくないのだけれど、黙っていられませんでした。