13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・其の05

目的地は、M氏が宿を取っている福島県の相馬市であり、到着時間を21時と決めた私は、荷造りや作業着の調達などを終え、逆算した14時頃にアパートを出た。
北海道へのスケッチ旅行を敢行した2003年以来の長距離走行だが、スケッチ旅行と比べれば荷物も軽いし、北海道まで行ったことを考えれば大した距離とは思えなかったのだが、何しろ年代物のバイクなので安心は出来ない。
M氏の話では、まだあちこち通れないところがあるから、二本松という出口で高速を降りたらとにかく国道6号線を目指し、その後北上するようにと聞いていたので、なるべく原発を避け、分かりやすいルートを検討し、
「二本松→国道459号線→国道114号線→国道6号線尾浜→県道38号線→旅館」
などとに携帯電話のメモに控え、国道6号から旅館までの比較的詳細な地図を、地図サイトから画面をキャプチャーし、iPod touchに保存しておいた。

この日、6月29日の東京は猛暑で、自宅で荷造りしているだけでも目眩がしそうになったほどだったため、日中のライディングは避けたかったのだが、夜の到着を目指すと、これを避けて通るわけには行かなかった。
途中でゲリラ豪雨かと思うような通り雨に出くわし、水煙で視界がゼロになったときにはオシッコちびりそうになったけれど、それ以外はどうにか無事で、日没後くらいには高速道路を降りることが出来た。

国道459号から114号へと乗り換えようとする手前で立ち寄ったコンビニエンスストアで、
「相馬市へ行きたいんですけど、このまま行けば114号ですよね?」と聞いてみたところ、店主さんとおぼしき男性に、
「そうですけど、今通行止めになっているから相馬の方へ行くなら迂回しないとダメですね」
……と言われてしまった。げっ、そうだったのか。地図サイトの情報では、放射能漏れによる交通規制までは分からない。

迂回路を簡単な地図で書いてもらった私は、再び書いてもらったルートに変更し、再びバイクを走らせた。
説明と地図によると、国道6号線に出てしまえば、あとはiPod touchに控えた地図で旅館にはたどり着けそうだったのだが、土地勘や地名に疎い私にとって「簡単な地図」による案内は余りに情報不足で、山あいの県道が中心の迂回路は案内標識の情報も乏しく、迷路そのものであった。
気がつくと周囲には明かりが灯る民家も少ない細い道に迷い込んでいた。
チラホラと明かりが灯っている以上、電気が回復していない訳ではなさそうだが、停電かと思うような暗がりに取り囲まれてしまっている。
携帯電話を使って地図サイトを参照してみたりなどしたが、画面が小さくて自分のいる場所がどこなのかも把握できないし、充分に調べようと思うには電池の残量も少なかった。

最後の手段とばかりに、比較的大きな道路の交差点で停車し、まれに通る車の行く先を見極めた。
数分の間に2、3台の車が通過していったが、どれも同じ方向に走っていて、その行く先の夜空は少しだけ明るく見えた。

「きっとあっち側に行けば市街地か、最低でも国道や県道があるに違いない」

…と予想した私は、藁にもすがる思いで進路を決めた。
そこから十数分ほど走っていくと、田んぼだか畑だか暗くて分からない細い道の先に、両脇に街灯が備わった広い道が見えた。

「やった! 6号線だ!!」

国道の案内標識を見付けた私は、ヘルメットの中で歓喜の声をあげた。
やがて見付かったコンビニエンスストアで確認をし、M氏に「あと30分以内に到着できそうだ」と電話したのち、更に十数分ほど北上し、県道38号線に入ることが出来た。

浜通りとも呼ばれる国道6号線は、海岸線から幾らか近いはずで、多少津波の影響を受けているのかと思ったが、街灯もきちんと灯っていたし、大きな川をまたぐ橋に大きな段差が出来ていたりはしたものの、道路に陥没があるわけでも、それを直した後があるわけでもなく、バイクで走る上で何も支障がなかったのだが、ほぼ海岸線ぞいに走っている県道38号線はかなり様子が違っていた。
街灯はおろか、信号すら回復しておらず、民家やコンビニエンスストアでさえ明かりが消えていたのだ。

「ひょっとしたら、この辺りはもろに津波を被ったのだろうか」

自分のバイクのヘッドライト以外には灯りらしい灯りが無い状態でしばらく走っていると、ガツンと激しい衝撃が。跨っていたタンクに股間を強打した私は、どうにか転倒することなく走り続けたが、どうやらこの県道38号線にはあちこちに深いくぼみが出来ているようで、そこに突っ込んでしまったのだった。くぼみは恐らく液状化の影響だろう。
一旦バイクを路肩に止め、iPod touchに収めた地図を参照した。この先にあるはずの旅館を左折すれば、すぐに目的地である「栄荘」なる旅館が見えるはず。
だが、果たしてM氏らも宿泊しているはずの旅館が、この闇の続く県道の先にあるのだろうか……と、不安がよぎる。
速度を落として走っていると、左折の目標であった旅館の看板が見えた。旅館らしき建物も確認できたが、灯りは消えていて営業しているようにも見えない。
「栄荘」はすぐ傍のはずなのだが……と思い、細い路地を左折してみると……。

「うっ」

思わず私は小さく声をあげた。
ヘッドライトの光の先に浮かび上がる光景は、昼か夜かの違いはあれ、ここ3カ月あまりTVで何度も何度も見てきた被災地の光景そのものだったのだ。
駐車場と思しき土地には錆び始めた車がひっくり返っていたり、民家の壁には大穴が空いていたり……。
国道6号線までは、ほとんど震災の影響を感じなかったのだが、泊まろうとする旅館のすぐ近くまで来て、こんな光景といきなり出くわすとは……。
道路が瓦礫で塞がっていたっておかしくないような光景だったが、そこは3カ月という月日の間に撤去されたのだろう。
バイクを停車し、周囲を見渡すと、民家のすき間から煌々と旅館の看板が灯っているのが見えた。被災地のど真ん中のような場所から垣間見える明るい看板は、私にとってとても異様に映ったが、間違えて道路一本早く左折してしまったことに気付いた私は、周囲の光景に目を奪われつつ、ゆっくりと引き返した。

「本当に……本当にここは被災した土地なんだ……」

今更ながらに、私はそう実感した。
ヘッドライトは主に道路を照らしているため気付かなかったが、県道38号線沿いの光景も、これと大差ないものだったのかも知れない。

もう一本先の道路を左折すると、暗がりに煌々と照明を浴びた「栄荘」の入り口が見えた。
この栄荘は、38号線から少しだけ……2mもないほど高台に建っていたお陰で難を逃れたという事なのだろうか。
携帯電話を開くと、もう23時になろうかとしている。予定よりも2時間近く遅れてしまった。
バイクを泊めて荷物を下ろし、フロントへ向かうと、女将さんが出てきて、部屋へ案内してくれた。ついさっき見た光景が嘘のように綺麗な旅館で、震災直後に建ったかのようにすら感じられた。

部屋へ通されると、M氏の他に2人の職人さんがくつろいだ格好でビールだか缶酎ハイだかを飲んでくつろいでいて、予定よりも遅れて到着した私の到着を歓迎してくれた。
お2人に挨拶を済ませ、改めてM氏を見ると、まあよく日焼けしていて、1カ月間現場にいたことを饒舌に物語っていた。

本来は食堂で食べるはずの食事を部屋に運んでもらっており、荷物を置いたのち、早速ヴォリュームたっぷりの食事を食べ終えた。

缶ビールを勧められ、皆さんと乾杯したのち、到着までの経緯を軽く話したあと、私はM氏に尋ねた。

「明日から……私は何をしたらいいんでしょうか?」

……………まだまだつづく

気がつけば被災地・其の04

そもそも人助けしていられる立場か……水もれ甲介氏の言葉を思いだした私は、次なる職として目指すWebデザイナーとして、不足している……というか、立ち後れている技術を研鑽すべく(要はカスケーディング・スタイルシート=cssのお勉強)、お勉強と求職を並行して行う日々に戻った。
折しも、cssを使って制作するにはシンプルすぎるHP作りを知人から請け負っており、その腕試しとばかりにフルcssでの処女作の制作を進めようとしたのだが、被災地での似顔絵描きのことは気になるし、多忙を極める発注者とは連絡がなかなか取れないし……などの事情で(言い訳)作業は捗らず、いたずらにストレスを鬱積させていた。

そんな6月のある夜、私は馴染みのお客の集まるお手頃な料金のバーへ出掛けた。
その店の常連には、某美大出の知人・Y氏がおり、6月の上旬に被災地でボランティアをしに行く話をしていて、こちらの被災地での仕事が見付かり、タイミングを合わせられるなら、私も合流したい……などと話をしていたのだ。
もし今夜も、タイミング良く彼と話が出来るなら、生の被災地の様子も聞いておきたいし、被災地での職探しの苦悩を、誰かに話してガス抜きをしたかった……という気持ちもあったのだ(言い訳)。

バーテンさんや他のお客さんなどに、職探しの苦悩などを話していると、バーテンさんの後輩に当たる大工さんも、しばらく被災地で仕事をしようと考え、会社を辞めてまで予定の被災地行きに備えていたらしいが、やはり話を白紙に戻され、途方に暮れているという話を聞いたりした。どこでも同じようなことが起こっているらしい。
人手不足も問題になっているというのに、何が悪ければ善意の求職者がひどい目に遭わなくてはならないのだろうか。

……と、そんな話をしている間に、果たしてY氏は現れた。
「被災地は行った方が良いですよ。ボランティアで行った方が良いですよ」
ボランティアの様子がどうだったのかを、まず尋ねた私に対して、彼はそんな答えをくれ、
「8月も、10日にやりますよ」とつけ加えた。
私も、アテに出来ない仕事を足がかりにしていくよりは、既に被災地入りして状況を知っている知人とボランティアをした方が確実なのかも知れない……などと考えた。
やはり、この未曾有の大天災に、一絵描きとして何もしなかったとあっては、一生悔いを残しそうだ。何だか、人助けというよりは、自分の生き方の問題にすり替わっていつつあったが、その分退いてはならない事であるような気がしていたのだ。

「では、金策が何とかなりそうなら、また連絡しますよ」
と、Y氏に言い、店を後にした。本当は、具体的な金策など何もなかったし、あるのならば、とっくに被災地へ行っていたのだが。

……と、それから更に1週間経ったくらい経った6月28日、金策も何も状況は全く良くなっていなかった私の元に、急展開を告げる着信が携帯電話にあった。

「Mさんが福島の仮設住宅の現場にいて、とにかく人が欲しいから、時間の空いている人を探しているって言うんだけど、如瓶さんどう?」
月一くらいのペースで行っていたスナックRという店に勤める女性からの電話であり、MさんとはRで顔なじみの建築士さんである。
「ああ、話した通り、瓦礫撤去の仕事なら探していましたけど、仮設住宅となると経験が……私で大丈夫なんですかねえ」
と聞くと、
「五体満足なら明日からでも来て欲しいって言ってたから大丈夫じゃない? とにかく電話してあげて」
……とのこと。

M氏に電話してみると、ネットで探していたよりも好待遇で、しかも経験も問わず、バイクで行くのもOKなら、Y氏のボランティアに参加するのもアリで、旅館は食事が美味しいという。
福島県は、流石に私も原発事故の影響が怖かったので、瓦礫撤去の候補地からも除外していたのだが、相馬市(宿)と、南相馬市(現場)であり、原発よりも北の方にあることを聞いて、それなら大丈夫だろうと安心したのだ。
政府が決めた同心円による避難区域指定など無意味であることを私は連日の報道から聞いて知っていたのだ。
既に1カ月滞在しているというM氏によると、
「万一の事に備えて、作業服は長袖が義務だけど、毎日線量は計測していて問題ないから心配しなくてよい」
とのお墨付きであった。

「本当は今夜にでもウチを出て欲しいけど、作業着の調達とかあるなら明日の夜にでも着いてくれれば良い」
と、更にM氏。
電話を切った私は、急すぎる展開に、今のバイクに福島までの長距離走行が大丈夫なのかとか、本当に仮設住宅の現場で私に出来ることがあるのかとか、それ以前に苛烈な肉体労働に体力が持つのかとか、気後れに任せて様々なことが不安になった。

だが、Y氏のボランティアとも重なる時期だし、あれほど切望して叶わなかった被災地行きが、こんなにも簡単に決まったのだから、これはやはり僥倖と言わざるを得まい。
何か問題があればその場で解決すればよいのだ。
今までだって、やりたい事・やるべき事のためになら、どんな事だって堪え忍んできたじゃないか。

導かれるべくして導かれたと言うべきか、念ずれば叶うと言うべきか、とにもかくにも私は、満願叶った形で被災地へ行く事になったのであった。

………更につづく