13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・其の13

気がつけば被災地・其の13

さて、ここからは単独行動。目的地も近い。
中学校の体育館の避難所で、次の目的地である避難所の場所の説明を受けたものの、大勢の人が避難していたという公民館であるその場所は、意外に見付かりにくく、バイクを停めてお2人ほどに道を聞いて、ようやくたどり着いた。

受付というか、事務所というか、玄関の脇にある窓から、似顔絵描きのボランティアをやりたい旨を伝えると、主だった立場であろう人が話を聞いてくれ、意外にアッサリと了承を頂いた。前の中学校の体育館に比べると、町内で運営している施設だからか、役所っぽい対応はなく、至って気さくな対応であった。

避難所になっているのはやはり体育館で、他にも会議室やら何やら、多目的に使われる場所のようだった。
私は、体育館の入り口付近にあるスペースに、パイプ椅子2脚と、折り畳み机(最初からおいてあったか?)を借り、場所を陣取った。
案内してくれた、この公民館を仕切っていると思われる老境の男性は、私が頼まなくても方々に声をかけてくれ、次々と希望者が現れる形となり、ほぼ間を空けずに、似顔絵を描くことが出来た。
親戚がいるからということで、陸前高田から移ってきたという女性を始めとし、もともと何をなさっていたのだろうと思うようなパンチパーマの男性、警察犬の調教などをされていたという男性などなど、8枚の似顔絵を一気に描いたが、いずれも60代を超えていると思われる方ばかりで、似顔絵の仕事をすると多くやってくる子供の希望者は皆無だった。
漠然としたものであっても、地震の時に来た絵描きが記憶に残っていて、何か将来の目標というか、方向性というか、そんなものの一助となるような経験を提供したいというのも私の目的ではあったのだが、夕方に差し掛かろうという時間に、子供の姿はほとんど見られなかった。
聞いたところでは、もう学校が授業を始めていて、子供たちは皆学校へ行っている……とのことだった。
まだまだお元気な方々とはいえ、こんなにも一度に高齢の人々を描いたのは初めてで、どちらかというと骨格が出来上がっている大人の方が描きやすいので、私としてはやりやすかったのだが、それでも2~3人は子供のことも描きたかったなあと思った。
最後に、公民館を仕切っていると思われる男性が、「じゃあ私も」と言い、私の前に座ってくださった。
どの方もが、来る前のイメージとは逆に、打ちひしがれているようでもなく、目の光が弱いわけでもなく、命があっただけ良かったと、口々に仰っていた。それは、東北の人たちの気質なのかも知れないし、似顔絵描きという、地味ながら珍しい客人から受けるサービスへの興味がそうさせていただけで、実際の心中はもっと複雑で、心労も溜まっているのかも知れない。
ただ、ひょっこり現れた似顔絵描きの前に座って、照れ臭さを抑えながら似顔絵を描いてもらおうという気分になれるくらいは、大船渡の人々に日常が戻ってきているのは確かなのだろうと思えた。

館長さん(?)を描き終えると、もう17時近い時間となっており、避難所にもお弁当が運ばれてこようとしていた。潮時かな…と思った私は、館長さんに「どうもご面倒をおかけしました」と御礼を言い、目のあった人に目礼を交わし、公民館を後にした。

前日までの疲労や、立て続けに13枚もの似顔絵を描いた割に、余り疲労感はなかった。むしろ、ここへ来て似顔絵を描くという大いなる目標を、想定通りとは言えなかったながらに、どうにかやり終えることが出来たという、清々しい達成感で胸がいっぱいだった。
僅か2日ながら、とことん濃密で有意義な時間を過ごした私は、まだ日数の残る相馬市での仕事に向かうべく、再びステップの折れたバイクに跨った。

「さて、後はとりあえず国道をどんどん下って、高速の入り口を見付けよう」
……と、ガソリンの残量を見ると、大して減っていない。ガソリンの漏れは、心配するほどではないのかも知れない。何とか、東京まで、いや、福島まで何とか無事に走ってくれよ……と思いながら、走っていた国道45号線は、軽度の渋滞が始まっていた。
おお、渋滞になるくらいは、車が動くようになったのだなあと、変なことに感心しながらも、更地同然になっている国道沿いの光景は、やはり非日常そのものであって、また胸が痛む思いだった。45号線は海沿いを走る国道で、津波が来るまではそれなりに開けたエリアだったのだろうけれど。

被害の大きかった陸前高田市を抜け、しばらく行くと、まだ日常の残る辺りまでたどり着いた。
県境を超え、宮城県まで来ているようで、気仙沼という聞き覚えのある補助標識が目に入る。
被害が少ないだけあって、山間部に差し掛かっているため、緩やかなカーブとアップダウンが続いているエリアで、震災があったことなど感じさせない光景が続く、とある交差点で信号を待っていると、

シュン……。

げっ、エンジンが止まった。万事休す……か!?

…多分、次回は最終回!

気がつけば被災地・其の12

…………あともうちょっと続く

……と、前回分に書き忘れてしまったが、公民館の備品である薄手の畳というか、少し厚手のゴザというか、そんな寝床で目を覚ました私は、疲れていた割にはパッチリと目が開いた。
ボランティアに来ている人たちは皆、公民館の板の間に、1人1畳分くらいの敷物の上に雑魚寝していたのだ。
昨夜の話だと、I女史は昨日の朝同様に、早朝からY氏らと他の被災地の状況を見に行くような話をしていたので、私は同行せずにもう少し寝ておくと伝えに行った。何しろこのあと向かう避難所での似顔絵描きが、被災地へ来た最大の目的なのだから、少しでも体力を回復しておく必要があったのだ。正直なところ、自宅にいるなら2、3日寝ていたいくらい疲れていたのだが……。

朝食(炊き出しの残りと、ちょっとした生野菜など)が7時くらいから始まり、軽く頂いた後、再び私は横になった。

I女史らが戻ってくる前に目が覚め、そこそこ疲れの癒えた私は、公民館を引き払うための片付けの手伝いをしながら待ち、その後ようやく出発となった。
公民館からほど近い、避難所となっている中学校の体育館へ向かうことになっていたのだが、I女史の知人で、ボランティアでリフレクソロジー(いわゆる足裏マッサージ)とアロマテラピーを掛け合わせたボランティアをしに来たという50代くらいのM女史と一緒に体育館へ行き、マッサージしているところを私が似顔絵に描く感じで行こうと打ち合わせていたのだ。
別な用事を済ませるI女史らが、リフレクソロジーの方を拾いに来る13時まで中学校でボランティアをし、そこから先は完全に別行動……という段取りになっていたので、公民館を出る時の私は、バイクに荷物を積んでの出発となった。

公民館を出てしばらく行くと……バイクの調子がおかしい。スロットルを開いてもエンジンが吹けない。燃料系を見ると、針がE(empty)を指している。
「え? ガス欠!? あと20~30kmくらいは走れるガソリンが残っていたはず……」
……と、私は思ったが、未舗装の駐車場に停めていたバイクの下に、直径30cmくらいのシミが出来ていたのだ。
「アレはひょっとして、夜露がたまって出来たのではなく、ガソリンであったか!」などと思った信号待ちの時、エンジンは完全に止まり、動かなくなってしまった。

昼食を買いにコンビニエンスストアへ行くことになっていたY氏やI女史らには先に行ってもらい、とりあえず給油をすべく、止まった位置から15分ほど単車を押し続け、最寄りのガソリンスタンドにたどり着いた。午前中とはいえ、この日も猛暑。さっき余分に休んだ分を使い果たすほど汗だくになってしまった。全く、40半ばになって何してんだ。

給油を終えてみると、エンジンは無事かかった。ここから先もガソリンは漏れ続けるだろうけれど、深夜にさえならなければ、せめて相馬市まではガソリンを絶やさずに走れるだろう。
旅館に着けば、ガソリンスタンドは近いし、東京へ帰るにしても何とかなるだろう。

30分ほどして、Y氏と再び合流すると、向かおうとしていた避難所で、リフレクソロジーとアロマテラピーのM女史が「事前のアポイントなしに突然来られても入れるわけにはいかない」と断られたりしていたそうで、他をあたろうという事になっているようだった。
避難所も管理している団体や組織によってはピリピリした雰囲気のところもあったようだが、融通の利かないというか、縦割り行政的というか、死に瀕する人相手にでも書類とハンコを求めるような在り方は何とかならんのか。

断られた避難所を諦めた我々は、この界隈で最も多くの避難者を受け入れていたという中学校の体育館へと向かうことにした。前日のお祭りの時にも、来場していたお客さんから、この近所にある、ひょこっと訪れて似顔絵描きをやらせてくれそうな、なるべく規模の大きい避難所はないか、私は聞き込みをしていて、その時に名前の挙がったのがその中学校だったのだ。

我々が恐る恐る体育館の中へ入っていくと、入り口付近に長机にパイプ椅子で番をしていた男性(恐らく役所かどこかの人か?)が現れ、Y氏やら私やらから「ボランティアしたくて来たのです」事情を説明すると、「そういうことならどうぞ」と、呆気なく了解し、案内してくれた。
「一番混み合っていた避難所」と聞いていたのだが、意外にも体育館の中は閑散としていた。ざっと数えたところで、4~5世帯という感じだった。
ここからここまでが一世帯という感じで、段ボールで作ったような簡素な障壁が設置されていて、かろうじてプライバシーを守っているという感じだった。
曜日でいえば日曜日だったのだが、子供の姿は全く見られず、お年寄りの姿が目立つ。まるで老人ホームが引っ越してきたかのようだった。

私とM女史は、「お昼は済まれましたか?」と聞かれ、まだであることを伝えると、さっきの男性が「お弁当がありますからどうぞ」と勧められ、頂くことになった。
このお弁当にしても支援物資の一つなのだろうけれど、突然現れたボランティアに振る舞えるくらい余分に届いているということか。
震災直後は、500mlのペットボトルに汲んだ水を、空のペットボトルに分け与え合っているような被災者の映像を見たりしたが、お弁当が残るくらいに復旧は進んでいるという事なのだろうけれど、私たちが来なかったら、このお弁当は破棄されていたのかも知れないと思うと、支援という言葉の意味をもう一度考えたくなった。

お弁当を頂くと、いよいよ本番。
体育館の床の真ん中あたりにパイプ椅子を3つ用意してもらい、M女史と私が並んで座る形となって、希望者が現れるのを待つことになった。
先ほどの男性や、恐らくはボランティアでこの避難所の世話をしているであろう中年の女性らが、方々に声をかけてくれ、最初の希望者が着席した。
M女史が足裏のマッサージを始めると、「無理にじっとしていなくても良いですからね」などと、私は声をかけ、鉛筆を走らせた。
最初の希望者は、50代くらいの女性で、眼鏡をお召しだった。
絵に描こうとしげしげとお顔を観察していたのだが、被災地に来ているのだということを忘れてしまえば、4カ月前に大変な目にあったという感じはせず、思いがけず得られたサービスに、ただただ満悦しているようだった。
M女史のマッサージのタイミングに合わせるようにして絵を仕上げ、スケッチブックから慎重に剥ぎ取って手渡すと、女性は「ほう」という表情を見せたが、一言御礼を言ったのち、自分の領域へと戻って行かれた。
まあ、その日の1枚目というだけあって、胸を張れる出来ではなかったが、決して失敗したとは思えなかったのだが……。

ここからはざっと書くけれど、2人目が、もともとは板前だったという、少し強面の60代半ばと思しき男性、その次に、お弁当の世話をしてくださった30代後半くらいのなかなか美人の女性、そして、タオルを頭に巻いた70代前半くらいの彫りの深い男性、そしてその男性の兄上だという、東郷平八郎を思わせる風貌の、白くて濃い口髭と長い顎髭をたくわえた80代くらいの男性と、一気に5人の人々の似顔絵を描く事が出来た。
30代後半と思しき女性を描いたときは、(先方が積極的に話しかけたからということもあり)どちらかというと会話の方に熱が入ってしまい、これは明らかに失敗してしまった。
たまたまそんなところに、I女史が様子を見にやってきて、失敗した似顔絵を見て「うーん、本物の方が美人ね」と、グサリ。「いやいや、初めて描いてもらったから嬉しいですよ」と、フォローを頂く始末であった。

タオルを頭…の男性を描いた後に、煙草を吸いに離席したのだが、ゆっくりと一ふかしして戻ってくると、差し上げた似顔絵を手にしたタオルの男性は、まだ似顔絵を掲げて見上げたり、お腹あたりまで持ってきて見下ろしたり、興味津々と見入っていた。
気に入って貰えたようで何よりであった。
東郷平八郎似のご老体は、描かれている間、高齢とは思えない強い眼光で私をにらみ据えるようにしてポーズを取ってくれていたが、描き終わると唖然とするような甲高い声で「ありがとう」と仰った。気押されるような威厳の陰で、実は緊張されていたのだろうか。

……とまあそんなわけで、訪れてから2時間ほどが経過し、M女史は電車の時間などの事情で、迎えに来たI女史一行と車で引き上げることになった。
私は、夜までに福島に着けばよいので、近くにある避難所をもう一箇所回ることにした。
昨晩話しをしたドイツ人・マーティンも、私とはここでお別れになることを察し、にこやかに歩み寄って握手を求めてきた。
「Bye! Good luck!」と私がいうと、「You, too!」と答え、至ってシンプルな別れの挨拶をした。
I女史や、この地への橋渡しをしてくれたY氏とも丁寧に挨拶をし、私は次の避難所へ向かうのだった。

…………もうちょっとだけ続く。

気がつけば被災地・其の11

さて、やっぺし祭は終了時間となり、我々は支援物資を片づけてトラックに積み……と、来た時と逆の作業に取りかかった。
終了作業が終わると、純粋にやっぺし祭のボランティアに来た人たちは作業終了ということになったのだが、私たちはI女史の案内のもと、再び被災地の様子を見に行くことになった。
ハッキリと聞いたわけではないのだが、I女史としては折角大船渡まで来て、被害がどれほどのものだったかを、少しでも多くの人につぶさに観て欲しかったのだと思うし、記憶が曖昧だが、「今しか見られないから」と、I女史自身が誤解を恐れずに言っていたような気もする。
実際、相馬市にいた2週間の間にも、路肩にあった漁船は空き地へ移動されていりなどして、徐々に復旧が進んでいき、非日常的な光景は、日常的な風景へと戻っていく。瓦礫の山をバックにピースサインして記念撮影をするようなのは問題があるが、どれほど被害が大きかったのかを見られるうちに見るのは、やはり大事なことなのではないかと、私にも思えた。
10人ほどの人数で車2台に分乗し、我々は港や工場などがあるエリアから様子を見に行った。朝同様に、私はY氏の車に乗りこんだ。
港の近くに着くと、一行は車から降り、津波によって壊された堤防や、陸に打ち上げられた漁船などを撮影して回っていた。

勿論私自身もカメラを持っていたけれど、この時くらいまでは自分の目で見ておくことが大事だと思ったし、大勢でカメラを持って、惨状を撮影して回ることが、被災者の感情を損ねるのではないかと思い、あまり派手に撮影せずにいた。
だが、港周辺を後にし、農村が広がるエリアに来た時に、私は気が変わり、撮影に夢中になっていった。
福島でも、津波の爪痕をいくつか見てきたけれど、この辺りの様子はケタが違う……と思えたからだった。

直接津波の爪痕というわけではないけれど、まず驚いたのは見上げるように積み上げられた瓦礫の山だった。

空き地や小学校の校庭などを利用して、幾つもの山が出来ていたのだが、これだけ積むだけでも相当な時間と労力がかけられたことだろう。これらは全て、津波が来るまでは被災した方々の財産だったものだ。それが、今となっては対処に困るほどの膨大な量の瓦礫となって、積み上げられている。
被害額が何兆円だとか、報道で聞いてはいたけれど、斯くも膨大な量の瓦礫の山を見て、やっとその甚大さを把握できたような思いだった。
同行していた面々も、声を失いつつ無心にシャッターを切っていた。私も、そうせざるを得ない気持ちだったのだ。

これまで、この一連の文章に、撮った写真を一枚も載せずに書いてきたけれど、それは想像を絶する被害の大きさは、写真などで伝えられるものではないだろうと思っていたからだ。
だが、ここから先はやはり、具体的な被害の様子を伝えるべき手段の一つとして、写真を掲載しておこうと思う。
だから、ご覧になる皆さんは、写真から何かしらの感想を持たれることと思うが、その光景を見た私の受けた衝撃は、その数倍以上のものだったと想像しながら見て頂きたいと思っているのである。

一通り撮影を終えると、瓦礫の山が積まれている向こうに見える小学校の方へ移動することになった。

こうして被害を受けた小学校などに立ち入って良いものなのか、少々躊躇したが、やはりI女史の案内をたよりに、我々も小学校の敷地内へ入っていった。

敷地内も、至る所に瓦礫が積まれており、まだまだ復旧が為されていないのが良く分かる。

やがて、我々は校舎内へ入って行ったのだが、全員が今まで以上に言葉を失った。

窓はガラスもほとんど無くなっていてサッシすら残っていないところもあり、そこから夕刻の仄暗い光が静かに差し込んできており、そこから数百メートル先には海が見えている。
流しのシンクに貼られていたステンレスの板も、シールでも剥がしたようにめくれ上がっていたし、教室の中には机も椅子も何も残っていなかった。全てが流されてしまったのだろうか。

床にも細かい木片や泥などで敷き詰められているように見えたが、中には子供の字が書かれたノートが落ちていたりしている。

黒板や壁など、海水が及ばなかったところは、どこにでもある普通の教室であり、元気な生徒たちの声が聞こえてきそうな気配すら漂っているのに、波を受けた部分の惨状には、言葉にしようのない感情が湧き起こってきた。
細かい被害の状況のことは分からなかったが、校舎内にいたであろう先生や生徒さんたちが、全員無事であってくれるよう祈りたい気持ちだった。

しばらくの間、健全で明るい生徒たちの息づかいと、自然の脅威・恐怖が入り交じっているような場所にいて、すっかり口数の少なくなっていた我々であったが、この小学校の様子を見てから、表情すら失っていたかのようになっていた。
昼間のボランティアでは、活気を取り戻しつつある被災地の様子を見てきたような気持ちになっていたが、それはまだ一部であり、こうして見て回ると、凄まじいばかりの地震の痕跡は未だそれと並存していて、我々の見た惨状もまた一部なのだ。
東京に居続けて何か出来ることをしたいと思ってやってきた被災地であったが、被災地に来てまた、出来ることだけしていても良いという問題では無いのかも知れない……という気さえしてきた。

日没も近づいて来たので、小学校を離れることにした我々は、もう一カ所だけ、1896年に今回に匹敵する津波が起こったものの、子孫に同じ思いをさせたくないという意図の元、漁村だったはずのエリアまるごと内陸へ移住した……という浜辺を見に行った。
見える光景は、広大にして荒涼とした砂浜の様に見え、元からこうだったのか津波で何もかも流されたのか区別がつかなかったが、I女史の話によると、津波から生き延びたその土地の人たちが、住み慣れた土地から離れていったお陰で、このエリアの死傷者はほとんど無かったのだそうだ。
自然に抗うだけではなく、自然に脅威を感じるならそこから素直に離れるという手段もあるのかと、先人の知恵に感服する思いであった。

いよいよ日没となり、公民館に風呂がないからだったか、I女史お薦めのだったからか、山の上に作られた大きな温泉で湯を頂き、日中の汗を流した。精神的にも身体的にも疲労のピークを迎えそうだった私は、油断すると湯船で寝てしまいそうだったが、どうにかこらえて公民館へ戻る車に乗り込んだ。

公民館に戻り、炊き出しの残りで食事を済ませた我々は、混み合う公民館を出て、近所にある公共施設のベンチで、電池式のランタンで灯りを取りつつ、発泡酒やビールなどを頂くことになった。
その席には、美術系大学志望者や出身者、現役のアーティストなどが十数人ほど顔を連ねていて、出来ればもう寝たいと思っていた私も、酒席を楽しもうという気持ちが湧き起こってきた。いや、疲労していることすら感じなくなるほど感覚が麻痺していたのかも知れない。
夕方の被災地巡りでも一緒だった、ドイツからボランティアのために駆けつけたというマーティンというペインターと、酔いが回りすぎないうちに……と思い、携帯電話の写真フォルダの中に収めてあった自分の作品の画像を見せたりしながら、話をした。
「僕はお酒が入った方が英語を話せるよ」などとボランティアの最中などに話していたため、逃げられない状況ではあったのだが、お酒のせいというよりは、疲れのせいでオツムが働かず、然も彼の英語が個人的にはとても聞き取りづらかったので、会話するのにとても苦労した。
とはいえ、作品を観て貰うのに言葉は必要ないのを救いに、たどたどしい英語を駆使して話をしたのだが、私の作品を観て彼は、「なかなかやるじゃないか」……という表情を見せていたような気がした。
「君は携帯電話などに自分の作品を持っていたりしないのか?」と私が聞くと、
「僕は生活をシンプルにしていたいので、そういうものは持っていない」と答えた。ペインターと言っていた通り、平面の絵画を中心として活動をしていると言っていたように聞き取れた。25歳の、ドイツ人なのにデイビッド・ベッカムに似た好青年であった。

その後も、私より10~20歳くらい若い人たち(日本人)と楽しく話をしたのだが、22時だったか23時だったか、それくらいまでで引き上げ、公民館に引き上げた。

スタートからベッタリと身体に張り付くような疲労感と闘った一日だったが、とても濃密で有意義な一日であった。