13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・其の11

さて、やっぺし祭は終了時間となり、我々は支援物資を片づけてトラックに積み……と、来た時と逆の作業に取りかかった。
終了作業が終わると、純粋にやっぺし祭のボランティアに来た人たちは作業終了ということになったのだが、私たちはI女史の案内のもと、再び被災地の様子を見に行くことになった。
ハッキリと聞いたわけではないのだが、I女史としては折角大船渡まで来て、被害がどれほどのものだったかを、少しでも多くの人につぶさに観て欲しかったのだと思うし、記憶が曖昧だが、「今しか見られないから」と、I女史自身が誤解を恐れずに言っていたような気もする。
実際、相馬市にいた2週間の間にも、路肩にあった漁船は空き地へ移動されていりなどして、徐々に復旧が進んでいき、非日常的な光景は、日常的な風景へと戻っていく。瓦礫の山をバックにピースサインして記念撮影をするようなのは問題があるが、どれほど被害が大きかったのかを見られるうちに見るのは、やはり大事なことなのではないかと、私にも思えた。
10人ほどの人数で車2台に分乗し、我々は港や工場などがあるエリアから様子を見に行った。朝同様に、私はY氏の車に乗りこんだ。
港の近くに着くと、一行は車から降り、津波によって壊された堤防や、陸に打ち上げられた漁船などを撮影して回っていた。

勿論私自身もカメラを持っていたけれど、この時くらいまでは自分の目で見ておくことが大事だと思ったし、大勢でカメラを持って、惨状を撮影して回ることが、被災者の感情を損ねるのではないかと思い、あまり派手に撮影せずにいた。
だが、港周辺を後にし、農村が広がるエリアに来た時に、私は気が変わり、撮影に夢中になっていった。
福島でも、津波の爪痕をいくつか見てきたけれど、この辺りの様子はケタが違う……と思えたからだった。

直接津波の爪痕というわけではないけれど、まず驚いたのは見上げるように積み上げられた瓦礫の山だった。

空き地や小学校の校庭などを利用して、幾つもの山が出来ていたのだが、これだけ積むだけでも相当な時間と労力がかけられたことだろう。これらは全て、津波が来るまでは被災した方々の財産だったものだ。それが、今となっては対処に困るほどの膨大な量の瓦礫となって、積み上げられている。
被害額が何兆円だとか、報道で聞いてはいたけれど、斯くも膨大な量の瓦礫の山を見て、やっとその甚大さを把握できたような思いだった。
同行していた面々も、声を失いつつ無心にシャッターを切っていた。私も、そうせざるを得ない気持ちだったのだ。

これまで、この一連の文章に、撮った写真を一枚も載せずに書いてきたけれど、それは想像を絶する被害の大きさは、写真などで伝えられるものではないだろうと思っていたからだ。
だが、ここから先はやはり、具体的な被害の様子を伝えるべき手段の一つとして、写真を掲載しておこうと思う。
だから、ご覧になる皆さんは、写真から何かしらの感想を持たれることと思うが、その光景を見た私の受けた衝撃は、その数倍以上のものだったと想像しながら見て頂きたいと思っているのである。

一通り撮影を終えると、瓦礫の山が積まれている向こうに見える小学校の方へ移動することになった。

こうして被害を受けた小学校などに立ち入って良いものなのか、少々躊躇したが、やはりI女史の案内をたよりに、我々も小学校の敷地内へ入っていった。

敷地内も、至る所に瓦礫が積まれており、まだまだ復旧が為されていないのが良く分かる。

やがて、我々は校舎内へ入って行ったのだが、全員が今まで以上に言葉を失った。

窓はガラスもほとんど無くなっていてサッシすら残っていないところもあり、そこから夕刻の仄暗い光が静かに差し込んできており、そこから数百メートル先には海が見えている。
流しのシンクに貼られていたステンレスの板も、シールでも剥がしたようにめくれ上がっていたし、教室の中には机も椅子も何も残っていなかった。全てが流されてしまったのだろうか。

床にも細かい木片や泥などで敷き詰められているように見えたが、中には子供の字が書かれたノートが落ちていたりしている。

黒板や壁など、海水が及ばなかったところは、どこにでもある普通の教室であり、元気な生徒たちの声が聞こえてきそうな気配すら漂っているのに、波を受けた部分の惨状には、言葉にしようのない感情が湧き起こってきた。
細かい被害の状況のことは分からなかったが、校舎内にいたであろう先生や生徒さんたちが、全員無事であってくれるよう祈りたい気持ちだった。

しばらくの間、健全で明るい生徒たちの息づかいと、自然の脅威・恐怖が入り交じっているような場所にいて、すっかり口数の少なくなっていた我々であったが、この小学校の様子を見てから、表情すら失っていたかのようになっていた。
昼間のボランティアでは、活気を取り戻しつつある被災地の様子を見てきたような気持ちになっていたが、それはまだ一部であり、こうして見て回ると、凄まじいばかりの地震の痕跡は未だそれと並存していて、我々の見た惨状もまた一部なのだ。
東京に居続けて何か出来ることをしたいと思ってやってきた被災地であったが、被災地に来てまた、出来ることだけしていても良いという問題では無いのかも知れない……という気さえしてきた。

日没も近づいて来たので、小学校を離れることにした我々は、もう一カ所だけ、1896年に今回に匹敵する津波が起こったものの、子孫に同じ思いをさせたくないという意図の元、漁村だったはずのエリアまるごと内陸へ移住した……という浜辺を見に行った。
見える光景は、広大にして荒涼とした砂浜の様に見え、元からこうだったのか津波で何もかも流されたのか区別がつかなかったが、I女史の話によると、津波から生き延びたその土地の人たちが、住み慣れた土地から離れていったお陰で、このエリアの死傷者はほとんど無かったのだそうだ。
自然に抗うだけではなく、自然に脅威を感じるならそこから素直に離れるという手段もあるのかと、先人の知恵に感服する思いであった。

いよいよ日没となり、公民館に風呂がないからだったか、I女史お薦めのだったからか、山の上に作られた大きな温泉で湯を頂き、日中の汗を流した。精神的にも身体的にも疲労のピークを迎えそうだった私は、油断すると湯船で寝てしまいそうだったが、どうにかこらえて公民館へ戻る車に乗り込んだ。

公民館に戻り、炊き出しの残りで食事を済ませた我々は、混み合う公民館を出て、近所にある公共施設のベンチで、電池式のランタンで灯りを取りつつ、発泡酒やビールなどを頂くことになった。
その席には、美術系大学志望者や出身者、現役のアーティストなどが十数人ほど顔を連ねていて、出来ればもう寝たいと思っていた私も、酒席を楽しもうという気持ちが湧き起こってきた。いや、疲労していることすら感じなくなるほど感覚が麻痺していたのかも知れない。
夕方の被災地巡りでも一緒だった、ドイツからボランティアのために駆けつけたというマーティンというペインターと、酔いが回りすぎないうちに……と思い、携帯電話の写真フォルダの中に収めてあった自分の作品の画像を見せたりしながら、話をした。
「僕はお酒が入った方が英語を話せるよ」などとボランティアの最中などに話していたため、逃げられない状況ではあったのだが、お酒のせいというよりは、疲れのせいでオツムが働かず、然も彼の英語が個人的にはとても聞き取りづらかったので、会話するのにとても苦労した。
とはいえ、作品を観て貰うのに言葉は必要ないのを救いに、たどたどしい英語を駆使して話をしたのだが、私の作品を観て彼は、「なかなかやるじゃないか」……という表情を見せていたような気がした。
「君は携帯電話などに自分の作品を持っていたりしないのか?」と私が聞くと、
「僕は生活をシンプルにしていたいので、そういうものは持っていない」と答えた。ペインターと言っていた通り、平面の絵画を中心として活動をしていると言っていたように聞き取れた。25歳の、ドイツ人なのにデイビッド・ベッカムに似た好青年であった。

その後も、私より10~20歳くらい若い人たち(日本人)と楽しく話をしたのだが、22時だったか23時だったか、それくらいまでで引き上げ、公民館に引き上げた。

スタートからベッタリと身体に張り付くような疲労感と闘った一日だったが、とても濃密で有意義な一日であった。

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