13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

気がつけば被災地・其の12

…………あともうちょっと続く

……と、前回分に書き忘れてしまったが、公民館の備品である薄手の畳というか、少し厚手のゴザというか、そんな寝床で目を覚ました私は、疲れていた割にはパッチリと目が開いた。
ボランティアに来ている人たちは皆、公民館の板の間に、1人1畳分くらいの敷物の上に雑魚寝していたのだ。
昨夜の話だと、I女史は昨日の朝同様に、早朝からY氏らと他の被災地の状況を見に行くような話をしていたので、私は同行せずにもう少し寝ておくと伝えに行った。何しろこのあと向かう避難所での似顔絵描きが、被災地へ来た最大の目的なのだから、少しでも体力を回復しておく必要があったのだ。正直なところ、自宅にいるなら2、3日寝ていたいくらい疲れていたのだが……。

朝食(炊き出しの残りと、ちょっとした生野菜など)が7時くらいから始まり、軽く頂いた後、再び私は横になった。

I女史らが戻ってくる前に目が覚め、そこそこ疲れの癒えた私は、公民館を引き払うための片付けの手伝いをしながら待ち、その後ようやく出発となった。
公民館からほど近い、避難所となっている中学校の体育館へ向かうことになっていたのだが、I女史の知人で、ボランティアでリフレクソロジー(いわゆる足裏マッサージ)とアロマテラピーを掛け合わせたボランティアをしに来たという50代くらいのM女史と一緒に体育館へ行き、マッサージしているところを私が似顔絵に描く感じで行こうと打ち合わせていたのだ。
別な用事を済ませるI女史らが、リフレクソロジーの方を拾いに来る13時まで中学校でボランティアをし、そこから先は完全に別行動……という段取りになっていたので、公民館を出る時の私は、バイクに荷物を積んでの出発となった。

公民館を出てしばらく行くと……バイクの調子がおかしい。スロットルを開いてもエンジンが吹けない。燃料系を見ると、針がE(empty)を指している。
「え? ガス欠!? あと20~30kmくらいは走れるガソリンが残っていたはず……」
……と、私は思ったが、未舗装の駐車場に停めていたバイクの下に、直径30cmくらいのシミが出来ていたのだ。
「アレはひょっとして、夜露がたまって出来たのではなく、ガソリンであったか!」などと思った信号待ちの時、エンジンは完全に止まり、動かなくなってしまった。

昼食を買いにコンビニエンスストアへ行くことになっていたY氏やI女史らには先に行ってもらい、とりあえず給油をすべく、止まった位置から15分ほど単車を押し続け、最寄りのガソリンスタンドにたどり着いた。午前中とはいえ、この日も猛暑。さっき余分に休んだ分を使い果たすほど汗だくになってしまった。全く、40半ばになって何してんだ。

給油を終えてみると、エンジンは無事かかった。ここから先もガソリンは漏れ続けるだろうけれど、深夜にさえならなければ、せめて相馬市まではガソリンを絶やさずに走れるだろう。
旅館に着けば、ガソリンスタンドは近いし、東京へ帰るにしても何とかなるだろう。

30分ほどして、Y氏と再び合流すると、向かおうとしていた避難所で、リフレクソロジーとアロマテラピーのM女史が「事前のアポイントなしに突然来られても入れるわけにはいかない」と断られたりしていたそうで、他をあたろうという事になっているようだった。
避難所も管理している団体や組織によってはピリピリした雰囲気のところもあったようだが、融通の利かないというか、縦割り行政的というか、死に瀕する人相手にでも書類とハンコを求めるような在り方は何とかならんのか。

断られた避難所を諦めた我々は、この界隈で最も多くの避難者を受け入れていたという中学校の体育館へと向かうことにした。前日のお祭りの時にも、来場していたお客さんから、この近所にある、ひょこっと訪れて似顔絵描きをやらせてくれそうな、なるべく規模の大きい避難所はないか、私は聞き込みをしていて、その時に名前の挙がったのがその中学校だったのだ。

我々が恐る恐る体育館の中へ入っていくと、入り口付近に長机にパイプ椅子で番をしていた男性(恐らく役所かどこかの人か?)が現れ、Y氏やら私やらから「ボランティアしたくて来たのです」事情を説明すると、「そういうことならどうぞ」と、呆気なく了解し、案内してくれた。
「一番混み合っていた避難所」と聞いていたのだが、意外にも体育館の中は閑散としていた。ざっと数えたところで、4~5世帯という感じだった。
ここからここまでが一世帯という感じで、段ボールで作ったような簡素な障壁が設置されていて、かろうじてプライバシーを守っているという感じだった。
曜日でいえば日曜日だったのだが、子供の姿は全く見られず、お年寄りの姿が目立つ。まるで老人ホームが引っ越してきたかのようだった。

私とM女史は、「お昼は済まれましたか?」と聞かれ、まだであることを伝えると、さっきの男性が「お弁当がありますからどうぞ」と勧められ、頂くことになった。
このお弁当にしても支援物資の一つなのだろうけれど、突然現れたボランティアに振る舞えるくらい余分に届いているということか。
震災直後は、500mlのペットボトルに汲んだ水を、空のペットボトルに分け与え合っているような被災者の映像を見たりしたが、お弁当が残るくらいに復旧は進んでいるという事なのだろうけれど、私たちが来なかったら、このお弁当は破棄されていたのかも知れないと思うと、支援という言葉の意味をもう一度考えたくなった。

お弁当を頂くと、いよいよ本番。
体育館の床の真ん中あたりにパイプ椅子を3つ用意してもらい、M女史と私が並んで座る形となって、希望者が現れるのを待つことになった。
先ほどの男性や、恐らくはボランティアでこの避難所の世話をしているであろう中年の女性らが、方々に声をかけてくれ、最初の希望者が着席した。
M女史が足裏のマッサージを始めると、「無理にじっとしていなくても良いですからね」などと、私は声をかけ、鉛筆を走らせた。
最初の希望者は、50代くらいの女性で、眼鏡をお召しだった。
絵に描こうとしげしげとお顔を観察していたのだが、被災地に来ているのだということを忘れてしまえば、4カ月前に大変な目にあったという感じはせず、思いがけず得られたサービスに、ただただ満悦しているようだった。
M女史のマッサージのタイミングに合わせるようにして絵を仕上げ、スケッチブックから慎重に剥ぎ取って手渡すと、女性は「ほう」という表情を見せたが、一言御礼を言ったのち、自分の領域へと戻って行かれた。
まあ、その日の1枚目というだけあって、胸を張れる出来ではなかったが、決して失敗したとは思えなかったのだが……。

ここからはざっと書くけれど、2人目が、もともとは板前だったという、少し強面の60代半ばと思しき男性、その次に、お弁当の世話をしてくださった30代後半くらいのなかなか美人の女性、そして、タオルを頭に巻いた70代前半くらいの彫りの深い男性、そしてその男性の兄上だという、東郷平八郎を思わせる風貌の、白くて濃い口髭と長い顎髭をたくわえた80代くらいの男性と、一気に5人の人々の似顔絵を描く事が出来た。
30代後半と思しき女性を描いたときは、(先方が積極的に話しかけたからということもあり)どちらかというと会話の方に熱が入ってしまい、これは明らかに失敗してしまった。
たまたまそんなところに、I女史が様子を見にやってきて、失敗した似顔絵を見て「うーん、本物の方が美人ね」と、グサリ。「いやいや、初めて描いてもらったから嬉しいですよ」と、フォローを頂く始末であった。

タオルを頭…の男性を描いた後に、煙草を吸いに離席したのだが、ゆっくりと一ふかしして戻ってくると、差し上げた似顔絵を手にしたタオルの男性は、まだ似顔絵を掲げて見上げたり、お腹あたりまで持ってきて見下ろしたり、興味津々と見入っていた。
気に入って貰えたようで何よりであった。
東郷平八郎似のご老体は、描かれている間、高齢とは思えない強い眼光で私をにらみ据えるようにしてポーズを取ってくれていたが、描き終わると唖然とするような甲高い声で「ありがとう」と仰った。気押されるような威厳の陰で、実は緊張されていたのだろうか。

……とまあそんなわけで、訪れてから2時間ほどが経過し、M女史は電車の時間などの事情で、迎えに来たI女史一行と車で引き上げることになった。
私は、夜までに福島に着けばよいので、近くにある避難所をもう一箇所回ることにした。
昨晩話しをしたドイツ人・マーティンも、私とはここでお別れになることを察し、にこやかに歩み寄って握手を求めてきた。
「Bye! Good luck!」と私がいうと、「You, too!」と答え、至ってシンプルな別れの挨拶をした。
I女史や、この地への橋渡しをしてくれたY氏とも丁寧に挨拶をし、私は次の避難所へ向かうのだった。

…………もうちょっとだけ続く。

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