13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

007 ロシアより愛をこめて

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

なるべく間を空けずにこのシリーズのブログを書いてしまおうと思っていたのだけれど、ブログにイラストを付けようと思い立ってしまったばかりに、ちょっと制作に時間がかかってしまった。ごめんなさい。

さて、今回書くのは、シリーズ2作目となる「ロシアより愛をこめて」。
現在はタイトルに書いた通りの作品名で通っているけれども、公開当時のタイトルは「007 危機一発」だったそう。

日本語に造詣の深い方は「あれ?」と思うだろうけれど、私の入力ミスではない。
私が小学生だった頃、学業優秀な友人が持っていた「よく使われる間違った日本語」みたいな内容の書籍に書かれていたエピソードに、この映画のタイトルについて、

「『危機一髪』の間違いではないか」

と、映画会社だったか広告代理店だったにポスターを見た人から問い合わせがあり、それについての返答が、

「007が、危機に陥ったときにピストルでズドンと一発撃って切り抜ける様子を伝えたかった」

と、誤植や誤用ではないとの返事があり、問い合わせた人は呆れた……みたいなのを読んだことがあった。
あちこち記憶が不明瞭だけれど、いい大人でも「危機一発」なんていう間違いに気付かないままポスターを刷るような珍事を起こすもんだと、少年ながらにニヤニヤしたのを思い出す。

こうしたエピソードが掲載されていないかとWikipediaを見ると、

「当時、映画会社の代理店に勤めていた水野晴郎氏が、『危機一髪』と銃弾の『一発』とをかけて考案した」

という意味の記述があり、まあこちらが正解なのだろうけれど、私が読んだエピソードで、釈明をしたのが水野晴郎氏だったかどうかは定かではない。
事実がどうあれ、この作品の影響力の大きさに応じて、「危機一発」と間違って覚えた方も多かっただろう。
「ロシアより〜」と変わったのも、世の中への悪影響を考慮してのことだろうか。

さておき、印象をメインに作品に触れよう。

ショーン・コネリー自身が、ボンド役を務めたシリーズ中で最も好きな作品だと言っていたという(それこそ水野晴郎氏の映画解説がソース)この映画は、私もお気に入りの一つ。

この作品から主題歌が付くようになり、マット・モンローの歌声も映画の印象を強めたことだろうし、ジョーン・バリーの楽曲自体が素晴らしい(と思う)。
英詞のこの主題歌は、カラオケでの私の得意曲の1つだったりもする。

まだ地味ではあるが、種々仕掛けのついたアタッシュケースや、コンパクトに収納できるライフル銃など、スパイ映画の雰囲気を盛り上げる小道具も登場し始める。
ショーン・コネリーの身のこなしもいいし、顔を映さずにいつもペルシャ猫を膝の上においているスペクターのボスの描写も、この作品から始まったし、ヒステリックで凶暴な一面もある女性大佐クレップ(=ロッテ・レーニャ、オーストリア人)とか、以降だいたい登場する屈強な殺し屋をロバート・ショー(イギリス人)が演じていたりとか、敵方も個性豊か。敵役をキッチリ描くと主役が引き立つというお手本のようだ。

もともと敵方だったボンドガールのタチアナ(ダニエラ・ビアンキ、イタリア人)は、伝説的な美女で、私もファンなのだけれど、作戦上ボンドを誘惑し籠絡しようと黒いチョーカーだけを身に着けてベッドで待ち構えているシーンなどは、適切ではない気がするが「圧巻」という以外に言葉が見つからない。
ミス・ユニバースなどでの優勝・入賞歴がある折り紙付きの美女なのだけれど、今回調べてみたところでは、伯爵家の血筋であることも分かり、それゆえ備わった気品なのかと納得したりして。
眠り薬を盛られてグダグダになったあたりは少しガッカリだったし、ファッション・モデルから女優へ転身したなりの演技力と見るけれど、美貌と気品という点では不世出のボンドガールと評したい。

と、この作品のボンドガールをベタ褒めしたところで、冒頭に書いたイラストとは、ダニエラ・ビアンキだな……と思った貴方、残念でした。

描いたのは、万策尽きてジェームズ・ボンドとタチアナが宿泊していたホテルに単身乗り込んで任務を全うしようとしたクレップ大佐でした。
とにかく、このクレップ大佐が時折出てくるお陰で、得も言われぬ緊張感が出ていたと思うし、その一方で分厚いレンズの大きな眼鏡をかけて登場したりと、どこかユーモラスな一面もあり、この人の存在なしでこの映画の評価はなかったのではないかとすら思えたので、描いてみた次第。
怖い顔をしてピストルを構えているのに、メイド服というギャップも微笑ましいし、射撃において合理的とは思えない独特なピストルの構え方もいい。

本音を言うと、ダニエラ・ビアンキを描きたかったのだけれど、今どきの著作権・肖像権については、非商用であっても似顔絵をネットに載せたらダメ臭いので、ボンドでもボンドガールでもなく、作品中で印象に残る登場人物を選んだ次第。
脇役であっても、著作権的にはNGなのだと思うものの、やはり描くなら顔の入った構図にしたかったし、まだ遺族から肖像権侵害と言われ恐れも少ないかとは思うのだけれど、やはりダメかも知れない。
前回のブログでも、著作権的にはNGだろうけれど、肖像権的にはギリギリか? という構図にした次第だが、こっちもダメなものはダメかも。
まあ、怒られたら削除する……で済むことを祈ろう。

さて、あまり考えたくない話はさておき、この映画を改めて観てみて書いておきたいのは、「ロシアより」というタイトルがついていながら、敵方の出演者は、皆ロシア系ではないということ。
最近の映画であれば、ロシア系の役者さんはチラホラ見受けられるものの、白々しく出身国を前述したとおり、ロシア系の役者さんはそれ以外でも皆無と思える。
かの「ジョーズ」や「スティング」などに出いてたロバート・ショーは、メイクのお陰で見事にロシア人に成り切っていたが、ロッテ・レーニャも、よく見れば北欧系の顔立ちかと私には見えるもののラテン系やアングロサクソンの顔立ちじゃないのが分かる程度だし、ダニエラ・ビアンキは、美貌で誤魔化されていたがあまりロシア系の顔立ちではないことに今更気付く。
浅い認識による推測だけれど、撮影された1960年代初期は、米ソというか東西冷戦の真っ只中であって、東側出身の役者を抜擢するのも困難なほど、対立が深刻だったということなのだろうか。
時期の近い作品に、中国人は頻出するけどエキストラ程度だし、当時から中国人は世界中に進出していたはずなので、頭数は揃えやすかったということか。

……と、推測が当たっていれば、キャスティングに当時の世相までもが描かれた作品でもあったんだなあと思えた次第。

権利問題のことがどうにも気になるので、イラストなんかナシのブログにすればよかった……と思いつつ、黙っていられませんでした。

007 ドクター・ノオ

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

さて、予告したとおり、なるべく間をあけずに書いてしまおう。
タイトルにあるように、映画の007シリーズの記念すべき第一作である「ドクター・ノオ」について、評を書こうというのである。

イアン・フレミングによる原作は、これが第1作というわけではなく……などと、Wikipediaなどを見れば分かる薀蓄を傾けるのは控えめにしよう。
先日この作品を放映したTV局でも数年前に放映され、録画していた私としては「どエラく久々に見る映画」というわけではなかったけれど、評を書こうと思って観ると、色々と書きたいことも出てくる。

最初に書いておきたいのは、シリーズのほとんどを観ていた立場としては、揃うべきものがまだ揃っていなかったんだなあ……と思った点。
シリーズ物の映画やドラマの初期作品では、「この頃○○は出てこなかったんだ」と思うのはよくあることだが、この映画でもそう。
ボンドガールにあたる女性(ウルスラ・アンドレス)は、初登場シーンから水着姿で見事なプロポーションを披露したけれど、ボンド・カー新兵器・秘密兵器など、シリーズの特徴や個性となる要素がまだ出て来ないのは、少し物足りなく感じられた。
ショーン・コネリーも若ければ、このシリーズも若かったということになるだろうか。

ただまあ、排除すべき人物は冷酷に排除するし、格闘技にも射撃にも長けているし、狡猾にブラフを駆使するなどして情報収集はするし、任務のためには自身のルックスや巧みな手管を使い敵方の女性も籠絡するし……と、体力と知力を尽くして任務をこなすスパイの立場はバッチリ描かれている。
とりあえずそんな要素だけでも、(恐らく主に男性の)観客を引きつける要素を持った映画になっていたんだろうなあと思えるのである。

とはいえ、そもそも映画は映画館で見るもの……という前提のもとに作られた映画にして1962年制作なので、録画して繰り返し観てみると、チラホラとアラが見えたりする。
そのあたりは2020年代を生きようとしている立場で苦言を呈する必要はないと思うけれど、やはりツッコみたい部分も書いておこう。

ボンドの上腕を這うタランチュラ

このブログを書くうえで、ワンシーンを選んでイラストを掲出しようと思って描いたのが上の鉛筆画なのだが、このシーンについてツッコミを。
上腕を這っているのは、ジェームズ・ボンドを暗殺するために、敵組織の一員がドクター・ノオから託された毒蜘蛛のタランチュラであり、ボンドの泊まっているホテルの部屋に仕込んだものなのだけれど、今観てみると、

「どうしても消したいヤツに対して、何故こんな不確実な方法を選んだ?」

と思えるわけである。
まあ、善意に解釈するなら、人に暗殺を命じるより犯人が誰なのかが解りづらくなるし、毒蜘蛛に刺されて命を落とした事故に見せかけられるというメリットはあるかも知れないが、どうしてもと思うならば、果物ナイフ一本持って寝込みを襲うほうがずっと確実だ。
確かに大型で見るからに凄みのあるタランチュラは、いかにも刺されれば死にそうな感じがするけれど、刺されたとしても大きめに腫れる程度だそうで、死ぬほどではないと聞いたことがある。

だからといって刺されたくはないし、「うわ、シーツの中に何かいる」と、博学も売りであるジェームズ・ボンドが気付いたとしても、単独のベッドシーンで、命の危険を感じて汗びっしょりになるほどの毒はないことは気付いたはずじゃないかと思うし、敵方の組織が暗殺用に品種改良を重ねて、腫れるではすまない強い毒性を持った蜘蛛を開発しようというのも、どこか合理的ではない。
巨大な犯罪組織が選ぶ手段として妥当なのだろうか。

しかも! このシーンを描こうとして繰り返し映像を観てみると、イラストのシーンでは、ボンドが小刻みに体を動かしているのに、その動きが蜘蛛に伝わっていないように見える瞬間があったりする。
推測の域を出ないけれど、ショーン・コネリーの上腕に、タランチュラの脚やら胴体やらの影はおちているので本当に上腕を這っているように見えるが、そうした不自然さから想像するに、上腕に触れるか触れないかくらいの位置に板ガラスをセットしてあり、その上をタランチュラが這い回せたのではないだろうか。
つまり、毒性の低い毒蜘蛛ではあれ、実物のタランチュラを体に這わせるのをショーン・コネリーが嫌がったか、所属している事務所があったのかは分からないが、「実際に這わせるのは安全上許可できない」とクレームが入ったか……などの理由で、制作側が対処を迫られたのではないかと思えるわけである。
ボンドからの視線から蜘蛛が上腕を這う様子を撮るシーンは、体格が似た代役を立てることができるし、より近年の映画のメイキング映像などで、毒蛇と演者の間にガラスを立てて撮影し、安全を確保しているのを観たことがある。

何作もこのシリーズを観ていると、原作者のイアン・フレミングは作中で、読者に強い印象を与える人が死ぬシーンや人が殺されるシーンなどに独特のこだわりを持っていたんじゃないかと思うところがあり、これはそのセンスが光るシーンでもあると思うし、初めて観た10代前半の頃は、手に汗握る思いで観たものだったけれど、歳とっていろんな知識が備わった上で観ると、ツッコまずにいられないシーンへとニュアンスが変わっていたりして。

なるべくよそうと思っていたツッコミを、イラスト付きで書いてしまったブログになったけれど、敵組織の強大さを暗示する壮大なセットの中で繰り広げられるクライマックスや、敵の親玉であり両手が義手で無表情なドクター・ノオの不気味な存在感など、印象的で強大に描かれる敵方も、冒頭に書かなかったこのシリーズの要素であり、作品のスケールや魅力を見事に創出しており、今の時代に初めてこの作品を観た方でも楽しめ、以降の種々のアクション映画などに多大な影響を与えたことが分かるのではないだろうか。
何しろ、25作(2020年現在)のシリーズを産み出したのは、この映画がよく出来ていたから……といって良いのだから。

当時の制作陣が、「60年も前の映画をこれほど細かく観てくれて嬉しいなあ」と、怒らずにこのブログを読んでくれ、なおかつまだこの作品を観ていない方が「ちょっと観てみるか」と思ってくれますように……と祈りつつ、黙っていられませんでした。

007シリーズのこと

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

007シリーズの映画をご存知だろうか。ご覧になったことはあるだろうか。

イアン・フレミング原作のこの映画は、英国のスパイであるジェームズ・ボンドが主人公で、種々の任務を帯びて世界各国を渡り歩き、秘密兵器だか新兵器だかの小道具・大道具を使って窮地を切り抜け、敵方・味方を問わず、任務上という建前で美女たちと親密になり……と、少年期にこのシリーズを観た私には、カッコいいオトナの世界が描かれており、TVで放映されると知ると、ベッドシーンには家族の目を気にしたものの、食い入るように観ていた映画だった。
更に細かいことは、原作やネット情報に説明を譲るとして、第二次大戦後の東西冷戦下にあってこそ、国が抱えているスパイが活躍する舞台が用意されているようなところがあり、昨今のシリーズは、イアン・フレミングの原作が映画化され尽くしたり、冷戦が終了したご時世だったりで、新しいシリーズを見るたび、設定やスパイの役割が随分変わったのを感じていた。

とはいえ、ボンドが所属するMI6とか、アメリカのCIAとか、イスラエルのモサドとか、企業スパイというレベルであっても、その存在に憧れを抱いたことのある諸兄は少なくないのではないだろうか。
私はスパイでございます……などと言えるわけのない、本当の姿を偽り続けなければならないミステリアスな立場であったりとか、それがバレたら命に関わるとかいう他の仕事とは異質なスリリングな立場とか、任務を達成するために必要な才能と特殊な訓練や教育を受けたりとか、どこか「選ばれた人材」であるあたり、冒険心や特殊な立場への憧憬など、男たちの冒険心や関心をくすぐる要素でいっぱいであり、映画で美女と親密になることすら任務であるようなことが描かれていると、「ボクもなりたい〜」と思う少年は多かったと思うし、そんな業種を主人公に据えた小説は映画化されて当然だと思うし、ジェームズ・ボンド以外にもスパイもの、エージェントものの映画が多数制作されているのも肯ける気もするわけである。

私が007シリーズの映画と初めて出会ったのは、ロジャー・ムーアがボンド役をやっていた「私を愛したスパイ」だった。
小学校4年のときで、夏休みだったか、学校で夏休み前に映画の割引券が配られたのをきっかけに、クラスメイト(もちろん男)の2〜3人で映画館へ行ったのを記憶している。
今思うと、冒頭からベッドシーンがあるような映画の割引券を、よく小学校で配ったものだと思うけれど。

で、この作品のボンド・カーのロータス・エスプリが、激しいカーアクションののち、敵のヘリに追われて水没……かと思いきや、潜水艇へと変貌したりとか、見るからに恐ろしい金属の歯を備えた大男の敵キャラがいたりとか、小学生を引きつけるには魅力たっぷりだった「私を愛した〜」であり、それを観て以降、TVの映画で007ものをやるとなると、それ以前のがどうだったかが気になってしょうがなく、また新作が公開されるとなると待ち遠しくて……と、そんな感慨が、今も尾を引いている感じがある。
ジェームズ・ボンドの年齢を遠く上回ってしまったはずの私にとっても、007シリーズとはそんな映画なのだ。

ちょうど今、某局の昼間の映画で、このシリーズ20作を放映する予定となっており、第一作「ドクター・ノオ(1962年公開)」から見返すチャンスに恵まれた。
少年期から、何十年かの時を経て観る007シリーズは、現状8作目まで放映され、今も通用する見ごたえを感じる点もあれば、その時代ゆえの映画としての素朴さ……というより拙さみたいなものも感じる部分もあり、複雑な心境だが、まあ観てみれば胸をときめかせた頃の感覚も蘇ってきて、やはり感慨深い。

そんなわけで、放映予定の20作(現状25作あるようだけど)を観て、これぞという作品について、賛辞もツッコミも書いてみたいと思う。
本当は、放送済みの分を一回のブログで書こうと思っていたけれど、ここまでで1500文字を超えてしまったので、やはり無理でした。

要は、今回のブログは、この後に書くブログの予告編……というわけである。執筆についても創作意欲が湧かない現在、絶好の救済策かと思えたりもして。
007シリーズファンの方も、そうでない方も、乞うご期待……と、黙っていられませんでした。