13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

007 ドクター・ノオ

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

さて、予告したとおり、なるべく間をあけずに書いてしまおう。
タイトルにあるように、映画の007シリーズの記念すべき第一作である「ドクター・ノオ」について、評を書こうというのである。

イアン・フレミングによる原作は、これが第1作というわけではなく……などと、Wikipediaなどを見れば分かる薀蓄を傾けるのは控えめにしよう。
先日この作品を放映したTV局でも数年前に放映され、録画していた私としては「どエラく久々に見る映画」というわけではなかったけれど、評を書こうと思って観ると、色々と書きたいことも出てくる。

最初に書いておきたいのは、シリーズのほとんどを観ていた立場としては、揃うべきものがまだ揃っていなかったんだなあ……と思った点。
シリーズ物の映画やドラマの初期作品では、「この頃○○は出てこなかったんだ」と思うのはよくあることだが、この映画でもそう。
ボンドガールにあたる女性(ウルスラ・アンドレス)は、初登場シーンから水着姿で見事なプロポーションを披露したけれど、ボンド・カー新兵器・秘密兵器など、シリーズの特徴や個性となる要素がまだ出て来ないのは、少し物足りなく感じられた。
ショーン・コネリーも若ければ、このシリーズも若かったということになるだろうか。

ただまあ、排除すべき人物は冷酷に排除するし、格闘技にも射撃にも長けているし、狡猾にブラフを駆使するなどして情報収集はするし、任務のためには自身のルックスや巧みな手管を使い敵方の女性も籠絡するし……と、体力と知力を尽くして任務をこなすスパイの立場はバッチリ描かれている。
とりあえずそんな要素だけでも、(恐らく主に男性の)観客を引きつける要素を持った映画になっていたんだろうなあと思えるのである。

とはいえ、そもそも映画は映画館で見るもの……という前提のもとに作られた映画にして1962年制作なので、録画して繰り返し観てみると、チラホラとアラが見えたりする。
そのあたりは2020年代を生きようとしている立場で苦言を呈する必要はないと思うけれど、やはりツッコみたい部分も書いておこう。

ボンドの上腕を這うタランチュラ

このブログを書くうえで、ワンシーンを選んでイラストを掲出しようと思って描いたのが上の鉛筆画なのだが、このシーンについてツッコミを。
上腕を這っているのは、ジェームズ・ボンドを暗殺するために、敵組織の一員がドクター・ノオから託された毒蜘蛛のタランチュラであり、ボンドの泊まっているホテルの部屋に仕込んだものなのだけれど、今観てみると、

「どうしても消したいヤツに対して、何故こんな不確実な方法を選んだ?」

と思えるわけである。
まあ、善意に解釈するなら、人に暗殺を命じるより犯人が誰なのかが解りづらくなるし、毒蜘蛛に刺されて命を落とした事故に見せかけられるというメリットはあるかも知れないが、どうしてもと思うならば、果物ナイフ一本持って寝込みを襲うほうがずっと確実だ。
確かに大型で見るからに凄みのあるタランチュラは、いかにも刺されれば死にそうな感じがするけれど、刺されたとしても大きめに腫れる程度だそうで、死ぬほどではないと聞いたことがある。

だからといって刺されたくはないし、「うわ、シーツの中に何かいる」と、博学も売りであるジェームズ・ボンドが気付いたとしても、単独のベッドシーンで、命の危険を感じて汗びっしょりになるほどの毒はないことは気付いたはずじゃないかと思うし、敵方の組織が暗殺用に品種改良を重ねて、腫れるではすまない強い毒性を持った蜘蛛を開発しようというのも、どこか合理的ではない。
巨大な犯罪組織が選ぶ手段として妥当なのだろうか。

しかも! このシーンを描こうとして繰り返し映像を観てみると、イラストのシーンでは、ボンドが小刻みに体を動かしているのに、その動きが蜘蛛に伝わっていないように見える瞬間があったりする。
推測の域を出ないけれど、ショーン・コネリーの上腕に、タランチュラの脚やら胴体やらの影はおちているので本当に上腕を這っているように見えるが、そうした不自然さから想像するに、上腕に触れるか触れないかくらいの位置に板ガラスをセットしてあり、その上をタランチュラが這い回せたのではないだろうか。
つまり、毒性の低い毒蜘蛛ではあれ、実物のタランチュラを体に這わせるのをショーン・コネリーが嫌がったか、所属している事務所があったのかは分からないが、「実際に這わせるのは安全上許可できない」とクレームが入ったか……などの理由で、制作側が対処を迫られたのではないかと思えるわけである。
ボンドからの視線から蜘蛛が上腕を這う様子を撮るシーンは、体格が似た代役を立てることができるし、より近年の映画のメイキング映像などで、毒蛇と演者の間にガラスを立てて撮影し、安全を確保しているのを観たことがある。

何作もこのシリーズを観ていると、原作者のイアン・フレミングは作中で、読者に強い印象を与える人が死ぬシーンや人が殺されるシーンなどに独特のこだわりを持っていたんじゃないかと思うところがあり、これはそのセンスが光るシーンでもあると思うし、初めて観た10代前半の頃は、手に汗握る思いで観たものだったけれど、歳とっていろんな知識が備わった上で観ると、ツッコまずにいられないシーンへとニュアンスが変わっていたりして。

なるべくよそうと思っていたツッコミを、イラスト付きで書いてしまったブログになったけれど、敵組織の強大さを暗示する壮大なセットの中で繰り広げられるクライマックスや、敵の親玉であり両手が義手で無表情なドクター・ノオの不気味な存在感など、印象的で強大に描かれる敵方も、冒頭に書かなかったこのシリーズの要素であり、作品のスケールや魅力を見事に創出しており、今の時代に初めてこの作品を観た方でも楽しめ、以降の種々のアクション映画などに多大な影響を与えたことが分かるのではないだろうか。
何しろ、25作(2020年現在)のシリーズを産み出したのは、この映画がよく出来ていたから……といって良いのだから。

当時の制作陣が、「60年も前の映画をこれほど細かく観てくれて嬉しいなあ」と、怒らずにこのブログを読んでくれ、なおかつまだこの作品を観ていない方が「ちょっと観てみるか」と思ってくれますように……と祈りつつ、黙っていられませんでした。

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