13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

少女像とか御真影の動画とか

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

さて、前回のブログであいちトリエンナーレのことについて書いたけれど、纏めるのに苦労したり、さぐりさぐり書いていたりで、主部述部の関係もおかしいところがあるなど、ひどい文章になっていて、自分の文章を読み返すのが大好きな私でさえ、半分くらいで読みたくなくなるほどだった。
書こうとする内容についての調べ物と並行して書いたりしていて、時間ばかりかかり、限界に近い状況でUPを急いだために起こったこととはいえ、真面目に読もうとした方には心よりお詫びしておきたい。

さておき、今となっても賛否や責任の所在などについて、意見が乱れ飛んでいる感じだが、撤去された作品についての良し悪しに対して意見を聴くことはやはり少ないので、ファインアートとコマーシャルアートの両方に携わる表現者である私が、主だった二つの作品について私見を書いてみようではないか。
因みに、私は油絵科卒であり、立体物などの彫刻や、映像作品などについて見識が深いわけではないことは、予めお断りしておこう。

まず、少女像から。
これもあまり触れられないので、作者のことを調べてみると、金運成(夫)と金龧炅(妻)という彫刻家の共作によるもので、型を作って量産している作品のようだ。

一部で、「型を作って量産しているあたりも、芸術作品とは言えないと思う」という意見も聞いたが、20世紀初頭に興った、作家がある意図をもって芸術作品だと言ってしまえば、それは作品であるとされるコンセプチュアル・アートというジャンルの存在を考えると、芸術作品であることを否定するのは難しいと私は考える。もう100年以上も前から、芸術作品は一品物でなくても、自分で作ったものでなくても良いとされているのだ。

ただし、これは量産品
一品物の彫刻なら、作家は全体的な造形のみならず、表面の質感や細部の造り込みなどに全力を注ぐことになるため、少なくともかけた時間や労力なりに見応えのあるものになるけれど、量産を前提として作るとなると、やはりどうしてもつるんとした印象のものとなり、像の迫力や微妙なニュアンスなどは失われていくものだ。
私が初めて、ニュース映像などでこの像を見たときに、作家の意図がビシビシ伝わってくるような作品ではないことはすぐに感じ取ったし、あちこちに同じようなものが次々と設置されているのを知ってからも、量産品なのではないかということは容易に想像できた。
ズバリ言ってしまえば、微妙にポーズが違っても、彩色が施されていても、ちょっとした添え物でバリエーションを付けようとも、彫刻作品としては真新しさも迫力もない、凡庸な作品であることは間違いないと思う。

もともと作者夫妻は、大学で彫刻を学んでいたようで、そういう経歴を持った人が作ったものであることは感じ取れるけれど、反米運動などに積極的に参加していた活動家の一面ももっていて、しかも慰安婦問題で日本が謝罪しない限り像を作り続けると言っているそうだが、慰安婦問題の真偽も確認せずに、自分らの作品が反日運動に使われることに何の抵抗もないところも含めて、表現者として賛同できない

芸術作品や表現物は、作者が何かしらの意図を込めたものであり、その意図が誤解なく鑑賞者に伝われば、成功したと言えると思うけれど、慰安婦問題にまつわる反日運動というストーリーだかレッテルだかを付与されたお陰で、凡庸な銅像ながら日本人をいや〜な気持ちにさせ続けている点においては、表現としてかろうじて成功していると言ってよいだろう。

次に、御真影の動画について。
問題の動画「焼かれるべき絵」は、戦争と女性をテーマにした作品を発表し続ける現代美術の作家、嶋田美子氏の作品であるらしい。
種々のネットの記事を拾っていくと、「焼かれるべき絵」に込められた意図は、戦時中に起こった「検閲」を問題にしていて、天皇制や天皇の戦争責任など、そもそも反日的な意図の作品ではないとされているそうだ。幾つか記事を読んだが、本来の意図についてここでする解説の助けとなるような腑に落ちる解説は見つからなかった。

ただし、そうした制作意図を知らずに見たら、「不自由展」で紹介されなくても、少女像と同じ空間になかったとしても、反日をテーマにしたもと思われても仕方がないと思う。
表現したいことが鑑賞者に伝わりにくく、誤解されるようであれば、それは作者の表現力やセンスの問題だ。表現物は、様々な形や事情で作者の手元を離れていくし、作者の手元にあったとしても展示中、常に作品の傍らにいて、「誤解されないように説明しますが……」と、鑑賞者一人ひとりに注釈をつけ続けるわけにもいかない。
そんなことをしなくて良いように、表現者は表現力を磨き、表現物だけで意図を伝えきれるようにする必要があるのだ。
そういう意味で、作者はもう少し表現の仕方に対して慎重であるべきだったのだと思うし、この動画は表現として成功したとは言えないと思う。
動画を見てみれば、映像美や意外性のある展開を表現の意図としていないのは明確だし、写真に写っているのが誰かが分かり、それを燃やして踏みつけるとなれば、ダイレクトな反日思想がテーマなのだと思うし、正しく鑑賞するために調査や研究を強いるような作品は、それだけで表現力不足だと思う。
私が映像作品については専門外であることと、現代美術に関しても詳しいとは言えないことはもう一度繰り返しておくけれど、長いこと様々な表現に触れてきて、様々な表現に心を動かされて来たことはあるわけであって、少なくともこの動画に、それがなかったことははっきり書いておきたい。

いろいろと思い切ったことを書いてしまったが、表現物とは個人的な好き嫌いでの評価に終止するもの。国際情勢やストーリーなどを知らずに、これらの作品の前を通りかかったとしても、私が立ち止まることはなかったと思う。

私が現代美術前衛芸術などと呼ばれるものに関心を持たないまま表現を続けてきたのは、理屈とか思想とかの予備知識がないと成り立たない傾向が強いと思えるからだ。表現物に対峙するだけで、鑑賞者に制作意図を伝えようとするための努力を怠っているように見えるからだ。
一方、ルネサンスの宗教画なども思想を盛り込んだ絵画だと言えるかも知れないが、その表現に注ぎ込まれた制作上の労力や表現に対する飽くなき研究の努力が結実しているからこそ、実家が浄土真宗の私でも胸を打たれるのだ。
そうした労力や努力が、あの作品群にあっただろうか。

前回のブログにも書いたけれど、政治や思想のことを芸術という枠組みの力を借りて主張しようとするのは前時代的だと思えるし、単純に好きじゃないのは、表現物が自分の手を離れた後に、どんなオプションを付けられて制作意図を歪められてしまうか分かったものではないし、あらぬ影響を持ってしまった場合、責任を取れる保証がないからだ。
私が知る限り、反日的なニュアンスが感じられる作品はもう1点あったようだけれど、その作品も含めて、「不自由」と括られるより、「無責任」とされるべき作品群だったのではないだろうか。
また、政治とか思想とかを抜きにすれば、優れた芸術として鑑賞できるものであれば、なおさら展示を中止しなくても良かっただろうし、理屈前提の表現物であったからこそ、心地よく鑑賞できるものになり得なかったのだと思う。

以上、思ったことや知っていることだけで書けないブログはしんどいなあと思いつつ、黙っていられませんでした。

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