13日の金曜美術館|アトリエ如瓶|ブログ・ヘッダ画像

このブログは、世の中の様々な「黙っていられん!!」ことを書くことを主旨としております。お客様や、お客様になるかも知れない方が読む可能性のあるブログではありますが、(書き手が勝手に決めたものながら)主旨を尊重し、常体文で記述して参ります。何卒お含みおきの上、お読みくださいますようお願いいたします。

あいちトリエンナーレのこと

皆様、こんばんは。館長&代表の如瓶です。

やはり、触れずに済ませるわけにはいかないと思うので、あいちトリエンナーレのことについて書いておこう。

あらかた意見は出尽くしているような感じであって、全体的にも部分的にも賛否両方を目にするけれど、一表現者である私としては、政治だの思想だのを自分の表現の中に持ち込まずに活動を続けてきたので、自分とセンスが合わない表現者や、自分が参加することのない芸術祭で起こったトラブルだなあと、かなり冷淡な見方をしていた。

ただ、そんな私が言えるのは、憲法で保障されているほど表現者はそれほど自由な存在ではなく、むしろ様々な制約の中からいかに自由に立ち回れるかを考えることによって自分のスタイルやら表現手法やらテーマやらが決まっていき、そこで表現を完成させるということが表現の自由を獲得することなのではないかということだ。

憲法で謳われる表現の自由は、「国とか政治とかの都合が悪いからという理由で表現を制約するための検閲はしないよ」ということだというのが私の解釈だが、そこから先は、自分の表現が機能し成立するよう努力したり、表現に対して起こった影響に責任を持ったりすべきだと思うし、ほとんどの表現者は独力で努力し、責任をとっていかなくてはならない。
だから、表現を成立させることが表現者の最終的な目標なのであれば、自分の努力や責任の範疇を超えるモチーフやテーマを選ぶべきではないのが表現者の在り方であり、良識でもあると思う。

センスが合わないからといって、それを否定しようとは思っていないし、センスの合わない人たちから私の表現を批判する言われもない。所詮、表現ってヤツは、表現者と観賞者の好き好きの中で完結するほうが、平和に機能していくものだと思っているし、風刺くらいならまだしも、政治活動などと表現活動……特に美術は分けて考えたほうが良いと思う。メディアが貧弱だった頃とは違い、政治活動は芸術の枠組みに嵌め込まなくても、誰もができる時代になっているのだから。

中止を決定した点において、今回の芸術監督は、取れる責任の身の程を見誤ったことは事実だと思うが、もともと表現者であった立場なのであれば、テロ予告に対しては警備の強化などで対策するなど、芸術監督の責任をもって要請するなどして展示は継続すべきだったと思う。
主催側の行政にしても、開催後に中止を決めるくらいなら、なぜもっと事前に内容の検証やどんな影響があるかについて想定しなかったのだろうかと思うところはあるけれど、惨事が起こってからでは遅いという立場もわかるし、中止は鑑賞者の安全を確保するための対処であって、憲法21条を引き合いに出してそれを批判するのは滑稽だと思う。

今回の芸術監督にしても、昭和天皇の写真の動画について「二代目前だから問題は小さい」といった意味のことを発言している動画を見る限り、全体的に企画に対する慎重さも真剣味もたりかなったのではないかと思われてもしょうがないだろう。もともと物書きという表現者だったはずの人だが、昔からそうだったのだろうか。

いつも通りくだくだしく書いてきたけれど、今回最も表現の自由を損なう行いをしたのは、面白半分に見えるテロ予告をした者たちであって、これは立派に刑事罰に値する強迫行為。
公的資金が使われた展示だったことやら、行政の反応やら、芸術監督の動画の暴露やらで、あまりスポットが当たらないけれど、元凶だった強迫行為についての対処を、主催側も行政も警察もマスコミも諦めているのだろうか。

……と、ここまで書いたのが8日の早朝。主催側の被害届をもってやっと警察も動き出しそうだけれど、これだけ騒がれた脅迫事件について、被害届が出ないと捜査しないのが警察なんだろうか。このあたりは、各方面に対して、吉本興業の問題とも同質の失望を感じる。

それにしても、こんな経緯でもなければ、注目を浴びないのが日本で開催される芸術祭であり、公的資金の話でも出てこないと表現物に対して注目しないのが日本国民であることを露わにしたのは、トリエンナーレの功績だったと言えるだろうか。

以上、本当は掲載した分の倍くらいの文章を書いたけど、どうにもまとまらなかったのだけれど、どうにか形にしたので黙っていられませんでした。

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